ハイムダール国物語  第二十九章


 夕闇の迫る路地を進んでいけばどこからか旨そうな料理の匂いが流れてくる。その匂いを嗅いだハボックは、そういえば今日はまともに食事を取っていない事に気付いた。だが、興奮しているのか腹はまったく空いて来ないし、匂いを嗅ぐまでは食事を取っていないことすら忘れていたのだ。
(ロイ……腹すかせてないかな……)
 攫われたロイがどんな扱いを受けているのか、ふと不安になってハボックは唇を噛み締める。
(ロイに何かあったらたとえ相手が誰だろうと絶対に赦さない……!)
 ハボックは一刻も早くロイを助けるべく足早に路地を抜けていった。
「若様、そこの右手の家です」
 背後からのマニの言葉が指し示す家の前にハボックは立つと言う。
「行くぞ」
 ハボックの言葉にティワズがその横に並んだ。何かあればすぐにでもハボックを守れる位置を取るティワズをちらりと見上げてハボックは古い木製の扉を強く叩いたのだった。


 どうしていいのか判らずひたすら神に祈りを捧げていたシヴは暫くすると小さなため息と共に組んでいた手を解く。夫を探しにいくべきか悩むシヴの耳にドンドンと扉を叩く音が聞こえて、彼女は悲鳴を上げて飛び上がった。
「だ、だれ……」
 隣りのマーサがおすそ分けだと野菜を持ってきたのだろうか。それとも遊びに出かけていた子供達が腹を空かせて帰ってきたのだろうか。それとももしかしたらあの金を誰かが取り戻しにきたのかも知れない。シヴがどうしたものかとオロオロと視線を彷徨わせていると、再び扉がドンドンと叩かれる。ビクッと体を震わせたシヴは、仕方なしに椅子から立ち上がるとゆっくりと扉に近づいていった。震える手を取っ手に伸ばしてまた引っ込める。それでも、みたび扉が叩かれる音がして、シヴはエイとばかりに取っ手を掴んだ。グイと押し開けた扉の向こうに立っていたスラリとした長身をポカンとして見上げる。
「こんにちは」
 そう言ってにっこりと微笑むその姿を一体どこで見たのだろうと考えたシヴの脳裏に浮かんだのは城のバルコニーに立つ一際艶やかな姿。
「ヒギンの家はここかい?」
 そう尋ねる目の前の青年が夢でも幻でもない事に気付いたシヴは。
「……」
 ヘナヘナとその場に座り込んでしまったのだった。


「あ、おい」
 目を見開いたまま腰が抜けたように座り込んでしまった女にハボックが手を差し伸べようとするより先に、ティワズが押しのけるように女に手を伸ばす。特に武器になるようなものは持っていないと判断すると、グイと乱暴に引き上げるように立たせた。ティワズに支えられるようにして立っている女にハボックが聞く。
「ヒギンに聞きたいことがあるんだけど、いるかな?」
 そう聞けば、女、シヴがブンブンと首を振った。
「隠し立てすると為にならんぞ」
 肩越しに聞こえるティワズの声にシヴが声を上げる。
「知りませんっ!私は何も知らないわっ!!」
「本当に……?」
 スッと目を細めて聞き返すハボックをシヴは息を飲んで見つめた。ブルブルと唇を震わすと必死に目を逸らす。
「ほ、本当に何も……」
 尻すぼみにそう答えるシヴの視線が彷徨って、ひとつ扉向こうにある棚へと向かった。それを見ていたハボックはシヴから目を逸らさずに言う。
「マニ」
 それに無言で頷いたマニは扉を抜けると台所の棚の前に跪いた。
「やめてっ!勝手に開けないでっ!」
 そう叫ぶシヴの声を無視してマニは棚を開けると中のものを取り出していく。一番奥に入った壺を見つけるとそれを取り出しハボックの前へと運んだ。
「中身はなに?」
 ハボックが聞けばシヴは震える声で答える。
「つ、漬物です……」
「あけて見せてくれる?」
 そう言われてシヴはハッとしてハボックを見た。まっすぐに見つめてくる視線にワナワナと震えるとがっくりと肩を落とす。
「お金です……主人がどこからか持ってきたんです」
 そう言うシヴに答えてマニが壺を開けた。中に入っている大金を確かめるとハボックに頷く。
「ヒギンと話がしたい」
 ハボックがそう言えばシヴはゆっくりと首を振った。
「いません。飛び出していってしまって……」
 シヴはそう言うとヒギンが小麦を届けに城に行ってから大金を持って戻ってきた時のことまでを話す。それを聞き終えるとハボックはシヴに聞いた。
「これまで何か変わったことを言っていたということはない?誰かの名前を言っていたとか」
「いいえ。何か様子がおかしいとは思っていましたけど、大事なことならきっと話してくれると思っていましたし……」
「ヒギンは荷物を運んだと言っていたんだね?」
「はい。自分はただ荷物を運んだだけだと」
 シヴはそう言うと胸元に両手を握り締めて言う。
「主人は一体何をお城から持ち出したんでしょう。あんな大金を貰うような、一体何を……」
 不安に見開いた瞳を見返してハボックは答えた。
「オレの命より大切なものを」
 そう言えばシヴの目が一層大きく見開かれる。
「ヒギンがどこに行ったか判るか?」
 そう聞かれてシヴは必死に考えると答えた。
「あの人はいつも困ったことがあるとクヴァジールのところに行くんです。王家の丘の麓に住んでいる老人です」
「クヴァジール?!」
 その名を聞いてマニが声を上げる。問いかけるハボックの視線に顔を顰めると答えた。
「元神官の頑固者のジジイですよ。そんなとこに逃げ込まれたらすぐ会えるかどうか……」
「会うさ。王家の丘だな」
 ハボックはそう言うと家を出て行こうとする。
「王子様っ」
 その背に向けてとんだ声にハボックは足を止めると振り向いた。
「あのっ…主人はどうなるんでしょうかっ?王子様の大切なものを盗んだなんて……見つかったらその場で殺され……っ」
 自分で言った言葉にショックを受けてシヴはワナワナと震える。ハボックはそんなシヴを見つめて言った。
「いきなり殺したりはしないよ。まずは話を聞く。でも、もし彼に何かあったらその時は容赦しない」
「若」
 諌めるように呼ぶティワズを睨むとハボックはマントを翻して出て行ってしまう。その後を追ってティワズ達が出て行ってしまうと、シヴはフラフラと椅子に座り込んだ。
「神様……っ」
 シヴは搾り出すようにそう言うと必死に祈りを捧げたのだった。


 家を飛び出したヒギンは店の裏手に止めた荷馬車に飛び乗ると思い切り鞭を入れる。飛び出すように走り出した馬を必死に操ると買い物客で賑わう道を走り抜けて街の外へと向かった。
「俺は何も悪いことなんてしてないんだ……っ」
 自分に言い聞かせるように何度もそう呟きながら半ば御者台に立ち上がるようにして荷馬車を走らせる。街を抜け田畑の間を走りぬけ、ヒギンは街の少し離れたところにある王家の丘と呼ばれる台地に向かった。ようやく目的地に辿り着くと飛び降りるように御者台から下りる。馬車をそのままにヒギンは丘の麓にある小さな家へと走った。何度も転びそうになりながら家の前まで行くと、殴るように扉を叩く。
「クヴァジールっ!俺だっ、ヒギンだっ!!」
 そう怒鳴りながら何度も扉を叩けば暫くしてゆっくりと扉が開いた。
「なんじゃ、騒がしい」
 小柄な痩せた老人の顔を見た途端、ヒギンは安心したかのように玄関先で座り込んでしまう。そんなヒギンを老人は眉を顰めて見たが、仕方なしに手を貸すと言った。
「さっさと中に入らんかい。一体何があったんじゃ」
「クヴァジール、俺は……っ、俺は大変なことを……っ」
「まずは中に入れ。ここじゃ話も出来ん」
 クヴァジールはそう言うとヒギンに手を貸して家の中へと入っていった。


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