ハイムダール国物語  第二十六章


「マニ」
 そう名を呼びながら扉を開けた店の中にはマニの姿はなかった。チッと舌打ちしてティワズは店の中を通り抜けると更に奥の扉へと向かう。厨房の奥にある狭い階段から上を見上げると声を上げた。
「マニ!」
 そう呼んで暫く待てばガタガタと物音が聞こえて茶色の髪の大柄な男が階段の上に顔を出した。
「ティワズか…」
 マニはそう呟くと頭をかきながら階段を下りてくる。ガバアと大口を開けて欠伸をするのを見てティワズは顔を顰めた。
「寝てたのか?」
「ああ、夕べ遅かったんでな」
 マニは欠伸交じりにそう言ったがティワズの顔を見ると欠伸を引っ込める。その紅い瞳を見つめると聞いた。
「何か問題が起きたのか?」
「ロイ様がいなくなった」
 そう答えるティワズにマニが僅かに目を瞠る。先を促す視線にティワズは言葉を続けた。
「ほんの少し目を離した隙にやられた。恐らく城の中の誰かの指図で出入りの商人が連れ出したんだろう。ロイ様がいなくなった時間、出入りしていたヤツらの名前は判ってる」
 ティワズはそう言うと懐から紙片を取りだす。それを差し出せばマニが受け取ってざっと目を通した。
「親や祖父母の代から出入りしている連中ばかりだな」
「ああ。だがソイツらが一番怪しいし、ソイツらに連れ出されたのでなければもう殺されて刻まれたか――」
「おい」
「若には言ってない」
 ティワズの言葉にマニはホッと胸を撫で下ろす。たとえ可能性があったとしても、年若い王子に恋しい相手の行く末の可能性の1つとして告げるにはいささか酷だった。
「で、お前のところで何か判らないか聞きに来たんだが」
「そうだったな、ちょっと待て」
 マニはそう答えると改めてリストに目を通したのだった。


「カウィルから嫁いでくるのが王子だとわかった時点で反対してたのがいただろう。叔父上が側室を取ればすむって説得して収まったけど」
 ブレダはそう言うとため息をつく。
「やっぱお前が側室とらない宣言なんてしたのがそもそもの発端って気がする」
「煩いな、反省してる」
『正直なのは若の美点ですがバカ正直なのは愚かです』
 そう言ったティワズの声が蘇ってハボックは唇を噛み締めた。確かに今回のことはハボックが国民の前で側室を取らないと言った事に端を発しているのだ。
(でも、ロイに伝えたかったんだ。オレはロイのことを一番大事に思ってるって)
 たった一人故郷を離れて見も知らぬ土地にやってきたロイ。その不安を思えば少しでもそれを軽くしてやりたいと、大事にして幸せにしたいと思ってしまったのだ。
(だけどその結果がこれじゃ意味がないじゃないか)
 ロイを思ってしたことがロイを危機に晒している。ハボックはそんな結果を招いてしまった己の配慮のなさに腹を立てると同時に、必ずロイを取り戻すと改めて心に決めたのだった。


「カウィルというのは美しい国だそうですな」
「ああ、小さいけれど緑に囲まれたとても美しいところだよ」
 ロイはファルマンに答えるとその脳裏にカウィルの光景を思い浮かべた。緑と水に囲まれた美しいカウィル。そこで暮らす懐かしい人々。そう言えばあの小さな王女に毎日手紙を書くと約束したのに、ハイムダールへ来てからまだ一通の手紙も書いていないことを思い出した。正直手紙のことなど思い浮かべる暇もない程慌しく刺激に満ちた日々だったのだ。そう思えばこのハイムダールと言う国に来てから出逢った人たちの顔が浮かぶ。誰も皆個性的で生命力に満ち溢れた、いかにも新興のこの国に相応しい、その身のうちからエネルギーを発している人ばかり。中でもあの王家に連なる人間は一際強い光と力に溢れていた。そう思ったとき、ロイの脳裏に婚姻の儀の時の漆黒の衣装を纏ったハボックの姿が浮かんだ。長身の生命力に溢れたその均整の取れた体は何れこのハイムダールを治める者としての力が満ち溢れていた。まだ若く荒削りではあるが、彼ならきっとこのハイムダールを一層強く大きくしていけるのだろう。誰もが彼にそれを期待し望んでいる。それなのに。
『オレ、ホントにアンタが好きなんです。側室なんていらない、アンタだけいればいい』
 いつかハボックが言った言葉が蘇える。ロイは腰につけた短剣に触れるとそっと息を吐いた。
(バカだ、アイツは)
 ロイがそう思ったとき。
「ロイ様はハボック王子がお好きですか?愛してらっしゃる?」
「…っ?!」
 突然そう聞かれてロイはサッと頬を染める。ファルマンはそんなロイを見つめると言った。
「そもそも貴方はこのハイムダールでどう生きていくおつもりなのです?女でないからには子供を作ることも出来ない。それなら貴方がここで生きていく意味はなんです?ただハイムダールとカウィルを繋ぐ為の部品でしかないのですか?」
 そう言うファルマンの言葉にロイは答える言葉を見つけられず唇を噛み締める。嫁いだ先のことなど考えたこともなかった。この国にくるだけで精一杯で、その先をどう生きていくかなど考える余裕もなかったのだ。
「貴方がこの先この国でどう生きていくか、それを決めて回りに示さない限り、今回のようなことは何度でも起きるでしょう。ハイムダールを思うばかりに一番安易な方法を選ぼうとする輩は後を絶ちません」
 ファルマンにそう言われてロイはボソリと答えた。
「ここでどう生きていくかなんて考えたこともなかった」
「ではいい機会だから考えるといいでしょう。幸い時間はたっぷりあることですし」
 そう言ってファルマンは薄っすらと笑う。ロイは目の前の痩身を不思議なものを見るように見つめた。
「お前は変わった男だな。一体何者なんだ、お前は」
「私は私ですよ、ロイ様。それ以上でもそれ以下でもない」
「何を望んでいるんだ。何を望んでここにいる?」
 そう聞かれてファルマンは答える。
「私はただ知りたいだけです。まだ私が知らないあらゆることを。私が望んでいるのはそれだけです」
「…望みが叶うといいな」
 ロイがそう言えばファルマンが嬉しそうに笑った。


「怪しいのはこの二人だな」
 マニはそう言うとリストの名前を指差す。
「このゲリと言う男、最近やけに羽振りがいいらしい。ついこの間までは金がなくてヒイヒイ言ってたのに、随分と派手な暮らしをするようになったって話だ」
 マニは続けてもう一人の名を指差した。
「もう一人疑うとしたらこのヒギンと言う男だな」
 何故と問いかけてくる紅い瞳を見返してマニが言う。
「どうも博打にのめり込んで莫大な借金を抱え込んでいるらしい。それこそ店から何から売り払っても払いきれないほどの金額だって話だ。つけ込まれるには十分だろう」
 マニの説明を聞いていたティワズは1つため息をつく。
「迷うほどのこともない」
 そう言うティワズにマニが言った。
「だったらすぐ締め上げに行くか」
「いや、若に判断させる」
 締め上げに行く気満々だったマニはティワズの言葉に目を瞠る。僅かに眉を顰めると言った。
「おい、一刻も早く姫君を助け出さないと拙いんじゃないのか?」
「与えられた情報から答えを導き出すいい訓練になるだろう」
「ティワズ!」
「世話になったな」
 そう言うとさっさと店を出て行くティワズの背をマニはあっけに取られて見送る。
「ったく、ティワズのヤツ…!」
 マニはそう唸るとクシャクシャと髪をかき混ぜたのだった。


→ 第二十七章
第二十五章 ←