ハイムダール国物語  第二章


「ハッ!!ハイッ!!」
 ドドドッと土煙を上げて走る馬の上で手綱を手にした男が声を上げる。猛スピードで走る馬の上で鐙に踏ん張り、体重を前に預けて男は巧みな手綱さばきで馬を操っていた。彼のはるか後方で呼んでいると思しき声が聞こえたがあまりに速く走る馬からは、いつしかその声も聞こえなくなってしまう。馬は倒れた木を飛び越え、下草を踏み荒らして森の中を駆けていった。
 やがて馬の蹄の音に混じって川の流れる音が聞こえてきて、男は手綱を弛めるとスピードを落としていく。そのうちゆっくりと立ち止まった馬の首を叩くと男は身軽に馬から下りた。
「お疲れ様、グルトップ。一息いれようか」
 男はそう言うと空色の瞳を細めて馬に笑いかける。手綱を引いて川のほとりまで来ると草の上に腰を下ろした。水を飲む馬の横で腰につけた皮袋を外すと、中から木の実を取り出し口に放り込む。
「お前も食う?」
 そう聞きながら手のひらに実を載せて差し出せば、金色のたてがみをした馬は鼻面を押し付けるようにして顔を寄せるとぺろりと食べてしまった。そうして時折吹き抜ける柔らかな風に金の髪を嬲らせていた男はゆっくりと立ち上がると馬の首を撫でる。
「グルトップ、悪いけどもう少し頑張ってくれるか?」
 そう言って馬のたてがみに顔を寄せた。
「オレ、カウィルを見てみたいんだ」
 囁くようにそう言うと顔を上げてにっこりと笑う。
「よし、じゃあもう一息!」
 男は互いを元気付けるように言うとひらりと馬に跨り、そうして再び森を駆け抜けていった。


「ロイ、どこに行くんだ?」
 すっかりと身支度を整えて、こっそり出て行こうとするロイの背に向かってヒューズが声をかける。悪戯をみつかった子供のようにびくりと体を震わせると、ロイはヒューズを振り返らずに答えた。
「いや、ちょっとそこまで…」
「そんなきっちりと外套まで着こんで?」
 背中に感じる視線に耐えかねて振り向けば案の定ヒューズが険しい顔で睨んでいる。ロイは苦笑すると仕方なしに答えた。
「ちょっと遠乗りにな。もう、これからはそんなに気楽に出歩けないだろうし。それになによりカウィルをよく見ておきたいんだ」
 ロイの言葉にヒューズは僅かに顔を顰めた。それから1つ息を吐くと言う。
「供の者は連れて行けよ、頼むから」
 本当は一人きりでカウィルを見納めたいと思っているのだろうと判っていたが、ヒューズはそう言った。たとえロイが腕に覚えがあったとしても、婚姻を控えた大切な身。一人で行かせるわけにはいかない。ロイもヒューズに見つかった上はそれ以上無茶は言わず、ヒューズが数人の兵士を呼び寄せるのを黙って見ていた。
「日が沈む前には戻るよ」
「無茶するなよ」
 そう言うヒューズに手を振ると、ロイは兵士達を連れて出て行く。厩番が連れてきた漆黒の馬に軽々と跨ると城を出発したのだった。


 ロイは城から続く坂道に沿って馬をゆっくりと走らせていく。もう冬がそこまで来ているとはいえ、降り注ぐ陽射しは暖かく、ロイは色づく木々の葉や鳥のさえずりを楽しみながら馬を進めていった。
(ハイムダールはどんなところなのだろう)
 この年になるまでロイはカウィルを出たことがなかった。カウィル以外の場所は書物の中でしか訪れたことはなく、文字ばかりで埋められたそれからは実際の景色は頭の中で想像するしか方法がなかった。ロイが夫とする肝心のその相手すら僅かに噂で聞くばかりで、ロイが嫁ぎ先の相手のことで知っていることといえば金髪の大男だという事だけだった。
 ロイは馬の腹を軽く蹴るとスピードを速める。本当はもっと闇雲に走ってほんの一時でいいから胸の内の煩わしいものをすべて置き去りにしてしまいたかった。だが、供を連れている身ではそうもいかず、ロイはただ黙々と馬を走らせていった。それでも黙って馬を走らせればカウィルの優しい自然はロイの心を慰めてくれる。
(ハイムダールもせめてカウィルのように私の心を慰めてくれる自然があればいいのだが)
 そんなことを考えながら馬が走るに任せて進めていけば、いつしかあたりは木々の生い茂る森へと姿を変えていた。
「ロイ様、あまり森の深い場所には行かれませんほうが…」
「うん…」
 年かさの兵士にそう言われたもののなんとなく馬を止められずに奥へと進んでいく。もう二度とこの森も見ることはないのかもしれないなどと言う考えが頭を過ぎり、そんなことを思えばますます馬を止めることも引き返すことも出来ずにロイはどんどん森の奥深くへと入っていった。
「ロイ様、本当にもうお戻りになられたほうが…」
 心配そうに再び先ほどの兵士が口を開き、それに答えるようにもう一人が口を開く。
「あの、この間森の中で茸狩りに来ていた街の者が獣に襲われたという話を聞いたのですが…」
「なんだとっ、どうしてそれを早く言わんっ!」
 若い兵士の言葉に最初の兵士が声を荒げる。それから急いでロイの隣に並ぶと強い調子で言った。
「ロイ様、もう戻りましょう。この先は森が続くばかりで何もありはしません。国境もさほど遠くありませんからよからぬ輩の出入りがないとも限らない」
 兵士の言うことはもっともだと思いつつ、それでもロイは馬を進め続ける。いつもならこんな無茶はせず、とっくに引き返しているはずのロイだったが、やはり望まぬ婚姻に心乱されていたのかも知れない。それでも。
「ロイ様!」
 兵士が大きな声を上げるのを聞いて、さすがに手綱を引くと馬を止めた。
「判った。もう戻ろう」
 ロイがそう言えば明らかにホッとした空気が流れる。ロイ達が狭い道で馬の方向を変えようとしたその時。森の中を獣の雄叫びが貫き、ギョッとして凍りついたロイ達の目の前に一頭の獣が現れた。
「マカイロドゥス…ッ」
 誰かが呻くようにその名を口にした獣は全長が3メートルほど、全身を茶褐色の毛に覆われ20センチを超えるであろう長い牙を備えていた。喉の奥で転がるような音を立てたそれはのそりと足を踏み出す。それに答えるように兵士達が馬上で剣を抜き、ロイを背後に庇った。ロイ自身も剣を抜き獣を睨みつける。獣は上体を引くように身構えたと思うと、一番近くにいた兵士に飛びかかった。己に向けて振り払われた剣をよけて獣は兵士に襲い掛かる。
「うわああっっ!!」
 馬上から引き摺り落とされた兵士の胸元を獣の鋭い爪が切り裂き血しぶきが上がった。息を飲む兵士達に向かって年かさの一人が叫ぶ。
「怯むなっ!!ロイ様をお守りするんだっ!!」
「おおおっっ!!」
 それに答えて一人が獣に立ち向かう。兵士が獣に剣を振るう間に他の一人が叫んだ。
「ロイ様っ、今のうちにお逃げ下さいっ!!」
「馬鹿言えっ!!お前達も一緒に――」
「ぎゃあああっっ!!」
 狭い森の中の道で剣を振るい切れずに兵士が血しぶきとともに馬から落ちる。目を見開くロイの目の前に爪と牙を真っ赤な血に染めた獣が兵士の体を飛び越えてトンと飛び降りた。
「ロイ様っっ!!」
 兵士の悲痛な声を聞きながらロイは獣と向き合う。
「グオオオオオ――ッッ!!」
 牙を振りかざして獣が雄叫びを上げロイに向かって飛びかかろうとしたその時。
 ザザザッと木々の間から一頭の馬が飛び出てくる。怯んだ獣が身をひいた隙にロイと獣の間に立ちはだかった。金色のたてがみの馬を操る男は何も言わずに剣を引き抜くと獣をねめつける。硬質の硝子のような空色の瞳でヒタと見据えられて、獣は怖じ気たような唸り声をあげた。それでも一声吠えると地を蹴って男目がけて飛び掛かる。獣の爪が男に向かって伸び、だが、男はまるでそんなものは気にもしないように剣を閃かせた。
「ギャオンッッ!!」
 悲鳴を上げて後ろに飛ばされた獣が顔を上げるとその右目から血が滴り落ちる。獣は低く唸ると身を翻して森の中へと消えていった。
「ロイ様っ、お怪我はっ?!」
「ないっ、そんなことより…っ」
 年かさの兵士が駆け寄ってくるのに構わずロイは馬から飛び降りると倒れた兵士に駆け寄る。ヒュウヒュウと喉を鳴らす体を抱え上げ必死にその名を呼んだ。
「ディアスっ!しっかりしろっ!!」
「ムリだ。もう助からない」
 背後から聞こえたその声に振り返れば空色の瞳がロイを見下ろしていた。ロイが怒りに唇を震わせて何か言おうとするより先に男が口を開く。
「アンタにも判っているでしょう。ソイツはもう助からない。楽にしてやった方がいい」
 そう言われてロイは息を飲むと兵士の顔を見下ろした。土気色の顔はもう、彼がそう長いことは地上に留まれないことを表しており、ロイは苦痛に顔を歪める。男はロイの傍らに膝をつくと兵士の手を取って言った。
「お前の主人は無事だ。お前が守ったんだ。よくやったな」
 そう言えば兵士の顔が僅かに綻ぶ。男はロイを見ると言った。
「アンタも何か言って。彼が安らかに眠れるように」
 ロイは黒曜石の瞳を見開くと息を飲む。何度か唾を飲み込むと兵士に向かって言った。
「ディアス、ありがとう。お前のおかげで私は無事だ。今は暫し別れねばならないが、何れ私もそちらにいくだろう。だからそれまで待っていてくれ」
「ロ…イさ、ま…」
 ロイの言葉に兵士は微笑み、それからその体から力が抜け落ちる。ロイは唇を噛み締めると兵士の体をかき抱いた。男は暫くロイの様子を見守っていたが立ち上がると周りを取り囲んでいた兵士達を見回して口を開く。
「一刻も早くここを立ち去った方がいいっスよ。血の匂いに誘われて更に獣がやってくる」
 そう言われて兵士達は顔を見合わせるとロイを促した。
「ロイ様、彼の言うとおりです。早く戻りましょう」
「ディアスを」
 ロイがそう言えば年かさの兵士が首を振る。
「ダメです。ディアスは連れて行けません」
「でもっ」
「その兵士の言うとおりっスよ。置いていくしかない」
「貴様っ!」
 男の言葉にロイが声を荒げた。男は構わず手近の枝を拾うと土を掘り始める。
「野ざらしにはしたくないでしょう?だったら急いで」
 その言葉に兵士達も慌てて土を掘るのを手伝った。間を置かずになんとか人一人を横たえるだけの穴を掘ると兵士たちはディアスの体をそこへ納める。すぐに土をかけようとするのを留めるとロイはつけていた首飾りを外してディアスの胸の上に置いた。最後にギュッとその手を握るとディアスから離れる。ディアスの体が土の中に消えていくのをロイは何も言わずにじっと見つめていた。男は兵士達がディアスを埋葬する間に胸元を裂かれた兵士の側へ寄り持っていた皮袋の中から包帯を何個か取り出す。なんとか血止めを施すと立ち上がって言った。
「もうすぐ日が暮れます。怪我人がいるからムリは出来ないでしょうけど、でも一刻も早く森の外へ」
 そう言った男に対して何も言わないロイに代わって年かさの兵士が答える。
「ありがとう。あなたのおかげで助かった。我々はこれから戻るが貴方は…」
「オレもそろそろ戻らないと――」
 男が兵士にそう言いかけた時。
「若っ!!」
 森の中から聞こえてきた声に男はギクリと体を震わせた。それから悪戯小僧のような笑いを浮かべて舌を出す。
「やべぇっ、グルトップ、行くぞっ!」
 男はそう言うとひらりと馬に跨った。
「それじゃっ、気をつけてっ!!」
 そう叫んで馬を走らせた男は横合いから飛び出してきた馬にギョッとして目をやる。
「若っ!!!」
「ごめ〜んっ!!」
 そう叫んで逃げるように馬を走らせる男を後から出てきた男が追いかけて走り去るのを、ロイ達は目を丸くして見送っていたが、やがて気を取り直すとそれぞれ馬に跨り、城へ向けて走り出したのだった。


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