ハイムダール国物語  第一章


「おい、ちょっと待てって、ロイっ!」
 ヒューズは廊下を足早に歩いていくピンと伸びた背中を追いかける。ようやく手の届くところまで追いつくとその腕をグイと掴んだ。
「ロイ、お前は本当にそれでいいのか?」
 ヒューズは振り向いた黒曜石の瞳を見つめて問う。だが、その強い輝きに、もう自分が何を言おうが決めたことを変えるつもりがないことを見て取ってヒューズは眉を顰めた。
「私がいいと思っているかということより、これが最善の選択だろう?それともエリシアを差し出すか?」
「ロイっ!」
 大切な娘の名を出されてヒューズが表情を険しくする。ロイはくすりと笑うと言った。
「冗談だ。エリシアは第一王位継承者のお前の一人娘。いずれこの国の女王となる身だ。いくら戦を避けるためと言っても嫁がせるわけにはいかない」
「…向こうはリザを寄越せと言って来たんだ。どうしてお前が行く必要があるんだ」
 ヒューズがそう聞けばロイがムッとして言い返す。
「自分の娘は差し出せないが妾腹の従妹なら構わないというのか?」
「そういうわけじゃ…っ」
 ロイの言葉にヒューズが苛立ったように言った。それに手を振って黙らせるとロイが言う。
「腹違いとはいえ私はリザが可愛い。出来ることなら幸せになって欲しいと思う。女が政略結婚で嫁いだところで幸せになれるなどとは思えないからな」
「だから代わりにお前が行くって言うのか?そりゃハイムダールは男同士だろうが女同士だろうが婚姻の認められてる国だ。だからと言って男のお前が嫁ぐことはないだろうっ。お前だって第二王位継承者なんだぞ。俺になにかあったらこのカウィルを治めるのはお前なんだ」
「ヒューズ、だからこそ私が行く意味があるんだ。私が王位継承者だから向こうも私との婚姻を承諾したんだ。私に継承権がなければわざわざ男を正妻として娶るなんてことはしないだろうさ」
「ロイっ」
 まだ何か言いたそうなヒューズにロイは笑った。
「そういうわけだ、ヒューズ。お前は精々その身になにかあったらなんて事が無いよう、気をつけてくれ。私がカウィルを治めるなんて事は、もうこの先ありはしないのだから」
 そう言って笑うロイにヒューズはギュッと目を瞑る。それから搾り出すように「すまない」と呟いた。
「この国にもっと力があったら、俺がもっと何か方法を思いつけていたら…っ」
「この国が今までこうしてあることが出来たのは叔父上とお前のおかげだ。ハイムダールと縁戚関係が結べれば戦に怯えることもなくなる。後のことは頼んだよ、ヒューズ」
「ロイ…」
 唇を噛み締めて拳を震わせるヒューズの肩をグッと掴むとロイはそう言ったのだった。


 ヒューズとの話を終えると自室に戻ったロイは窓から外を見下ろす。城の最上階にある部屋からは街の様子が一望できた。
 ここ、カウィルはアメストリスのほぼ中央に位置する小国だ。緑に囲まれた美しい領土は鉱物資源に恵まれており、また代々この国を治めるヒューズ家は名君、英君を輩出しており、そのおかげもあってカウィルは小さいながらも生き残ってくることが出来た。だが、世界情勢が混沌としてくる中、最近では国々の間で頻繁に戦が起きるようになり、小国は次々と戦火の渦に消えていくようになっていた。このカウィルもこれまではなんとか生き延びてくることが出来たが、今の情勢ではいずれ戦争に巻き込まれていくことは想像に難くなく、それならばいっそ力のある大国と同盟を結ぶことで国としての生き残りを図ろうという事になったのである。同盟を結ぶ為の一番手っ取り早く確実な方法、婚姻によって。
 もともと、軍事的にも好位置につけるカウィルには同盟を打診する動きがあった。小さいながらもやり手の君主が治める国を戦で攻め落とすのは容易ではないからだ。カウィルは同盟を打診してきた国々の中から2番目に大きいハイムダールをその相手として選んだ。ハイムダールは新興の国ではあったが若く活気に溢れ、いずれこのアメストリスを名実共に1つの国として纏め上げて行く力に満ちていた。そういう訳でハイムダールと婚姻の話を進めていたカウィルだったが、婚姻の相手としてリザをと言われてロイが猛反対した挙句、代わりに自分が嫁ぐということで話を決めてしまったのである。
(ここからこうしてカウィルの街並みを見下ろすのも、もう出来なくなるんだな…)
 ロイはそう思いながら美しい街並みを見下ろす。ロイは生まれ育ったカウィルが大好きだった。この国もこの国で暮らす人々も。自分が嫁ぐことでこの美しい国を守ることが出来るならそれでも構わないと思うほどに。
 ロイがそうして思いを込めて街並みを見下ろしていると扉をノックする音が聞こえた。ロイの返事に応えて開いた扉の向こうにはロイの腹違いの妹、リザが立っていた。
「リザ。どうした、そんな顔をして」
 ロイが窓辺に寄りかかったままそう聞けば、部屋に入ってきたリザはロイを睨みつけるようにして見つめる。ギュッと唇を噛み締めると言った。
「どうして?どうしてお兄様が嫁がれる事になったんですか?」
「リザ」
「だって婚姻の話は私のところに持ち込まれたものでしょう?それがどうしてお兄様の婚姻話にすり替わっているのです?」
 リザは鳶色の瞳でロイをじっと見つめると言葉を続ける。
「私だって馬鹿ではありません。ハイムダールでこのカウィルの有利になるよう立ち回ることくらい出来ます。お兄様はこのカウィルの第二王位継承者なのですよ?それなのに、どうして?」
 意志の強い瞳で見つめてくるリザをロイは愛しそうに見つめた。ロイはこの腹違いの妹をとても可愛がっていた。リザもまた兄であるロイを慕ってくれていた。だからロイはリザに幸せになって欲しいとずっと願っていた。
「リザ。お前には好きな男がいるだろう?」
 突然そう言われてリザは鳶色の瞳を見開く。驚きに幼さを覗かせる表情にロイは笑うと言った。
「好きな男がいるのに他の男のところへ嫁ぐ事はない」
 そう言われてリザが声を荒げる。
「私はカウィルの王女です。この国のために身を捧げる覚悟はあるわっ!」
「どうしてもお前でなければならないというのなら私だってそうしてもらう。だが、今回はお前である必要はない」
「だったらお兄様である必要もないでしょうっ?」
「私には好きな相手はいないよ、リザ」
 そう言って薄っすらと笑うロイにリザは息を飲んだ。悔しそうに歪められた瞳からほろりと涙を零すリザをロイはそっと抱きしめる。
「私のことなら心配いらないよ。だからそんな顔をしないでくれ」
「でも、お兄様だってハイムダールに行きたいわけではないでしょう?」
 そう言われてロイは思わず苦笑する。顔もろくに知らない男のところへ男の身で嫁ぐのだ。行きたいわけがない。
「もう決めたんだよ、リザ」
 そう言えばポロポロと涙を零すリザをロイはギュッと抱きしめたのだった。


「ロイ?」
 廊下を歩いていたロイは遠慮がちにかかった声に足を止める。廊下に飾られた彫像の影を覗けばそこには幼いエリシアの姿があった。
「やあ、エリシア。ご機嫌いかが?」
 にっこり笑ってロイはエリシアに話しかける。いつもなら賑やかなほどおしゃべりなエリシアが今日は俯いたまま小さな足で床を蹴りつけていた。
「どうした?ママに怒られたか?」
 ヒューズの妻でありエリシアの母でもあるグレイシアは美しく聡明な女性だ。一人娘であるエリシアを一人っ子の我が儘娘になど育てることなく、時に優しく時に厳しく接している。そのおかげでエリシアは幼いながらもりっぱなレディーとしての気品と知性を備えていた。ロイの問いかけにエリシアはふるふると首を振る。なかなか口を開こうとしないエリシアにロイが重ねて何か言おうとした時、エリシアが顔を上げてロイを見た。
「ロイ、お嫁にいっちゃうの?」
 悲しそうに言う幼い瞳にロイは優しく笑うとその体を抱き上げる。
「もう聞いたのか」
「パパとママが話しているのを聞いたの」
 エリシアはロイの前でだけ呼ぶ呼び方で両親のことを言った。
「ママがロイは遠いところにお嫁にいっちゃうんだって」
 エリシアはそう言うと唇をへの字に曲げる。
「もう会えないの?」
 ロイは必死に涙をこらえているエリシアに優しく笑うと言った。
「そうだな、今みたいにすぐ顔を見るのはムリだけど、でも全く会えない事はないよ」
「じゃあ1週間に1回くらい?」
「いや…」
「じゃあ1ヶ月に1回?」
 そう聞かれて困ったようにロイは笑う。それからちょっと考えると言った。
「なかなか会うことは出来ないけど、でもそのかわり手紙をいっぱい書くよ。だからエリシアも書いてくれるかい?」
「うんっ、毎日書く!だからロイも毎日書いてね」
「ああ」
「約束よ、約束」
 そう言って小指を差し出してくるエリシアとロイは小指を絡める。一生懸命約束のおまじないを唱えるエリシアをロイはじっと見つめていた。


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