果てなき恋のバラード  第九章


「一体どうしてこうなるんだ……」
 ロイは未だパニックに陥ったままの頭で考える。手に握られたままのスポンジはスポンジ本来の機能を果たす事なく泡立てた泡が空しく弾けては垂れて落ちていった。
 ほぼ一日ハボックと一つ部屋で過ごしていたおかげですっかりハボック過多になってしまったロイだったが、家に戻って一人になってなんとか気持ちを立て直せると思ったところに。
『ろくに食うもんないんでしょ?オレが作りますよ』
 そう言ったハボックはロイが呆然とする間に買い物の袋を抱えてさっさとキッチンに入ると食事の支度を始めてしまった。確かに家にある食べ物と言えばワインとパンくらいしかなかったし、外で食べるのはこれ以上ハボックと過ごすのは耐えられないからと断った。それなのにこれでは何の意味もないではないか。しかもハボックの手料理なんて。
「うわあっ」
 考えただけで心臓が大暴走を起こしてどうにかなってしまいそうになる。ロイが思わず声を上げて両手を振り回した時。
「たいさぁ?大丈夫っスか?」
「ッッッ!!!」
 突然扉の外から聞こえた声にロイは飛び上がった。ばっくんばっくん鳴る胸を押さえてどうにかこうにか声を絞り出す。
「なっ、なにがッッ?!」
「あ、生きてた。いや、もう随分たつのに一向に出てこないから中で倒れてんじゃないかと思って」
 返事がなかったら踏み込むとこっしたよ、ととんでもない言葉が扉越しに聞こえてロイはギョッとする。
「だっ、大丈夫だッ!ちょっと考え事をしてただけだッ」
「そっスか?ならいいんスけど。そろそろパスタ、茹ではじめようかと思うんで」
「判った、もう出る」
 ロイがそう答えればハボックが遠ざかっていく足音がする。ロイは「はああ」と思い切りため息をつくと手にしていたスポンジで体を洗い始めた。烏より早く洗い終えると急いでシャワールームを出る。いつもなら後は寝るだけだからとパジャマを着るところだったが流石にそんな格好でハボックの前に出る気にはなれず、ロイは白いシャツとスラックスを身につけ階下へと降りた。
「あ、大佐。グッドタイミング」
 ダイニングに入ればテーブルをセットしていたハボックが振り向いて言う。にっこりと笑う空色にドキドキしながらロイは言った。
「すまない、なにも手伝わなくて」
「いいんスよ、オレが勝手にやってるんだし」
 座っててください、とハボックは言ってキッチンに消える。キッチンとダイニングを往復してパンやらサラダやらをテーブルに並べると、最後に熱々の湯気を上げるパスタの皿を手に戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 言ってロイの前に置かれた皿にはベーコンと卵をたっぷり使ったカルボナーラが盛りつけてあった。鼻をくすぐるベーコンの香りにロイは勧められるままフォークを手に取る。ふうふうふうと念入りに息を吹きかけて口にしたそれは、滑らかなソースが絶品でとても美味しかった。
「……旨い」
 思わずそう呟けばハボックが嬉しそうに笑う。
「そうっスか?よかったぁ、大きなこと言った手前、口にあわなかったらどうしようかと思ってたんスよ」
 言って満面の笑みを浮かべるハボックにロイの心臓がドキンと跳ねる。慌てて視線を手元に戻してもごもごと言った。
「旨いよ、とても。今まで食べたパスタの中で五本の指に入るくらいだ」
「うわ、食通の大佐にそんな風に言って貰えるなんて光栄っス。よかったらおかわりあるっスから」
 ハボックはそう言いながらパスタを口に運ぶ。フォークにたっぷり巻き付けたパスタを大きな口で頬張る様をそっと伺い見て、ロイは微かに頬を染めた。
(いい食べっぷりだなぁ)
 皆で飲みに行ったりした時にも思ったものだがロイはハボックの豪快な食べ方が好きだった。決してがっついているというのではなく、大きな口でもりもりと食べる様子は側で見ていても気持ちがいい。食べ物がとても美味しそうに見えて思わずこちらも食が進んでしまうのだ。
(こんな風に食べられるのなら食事の時間も楽しいんだろうな)
 正直ロイにとって食事の時間というのはあってもなくてもいいものだった。食べなければ体の機能を維持出来ないから食べるだけであって、美味しいから食べたいとかそんな風に思ったことなど遠い昔の子供時代を除けばありはしなかった。だが。
「大佐、ほら、サラダも食べてみてくださいよ」
「このドレッシング、旨いな。どこの店のだ?」
「オレが作ったんス」
「お前が?」
 ドレッシングなんて店で買うものだとばかり思っていたロイは目を丸くしてハボックを見る。ハボックは驚くロイににっこりと笑って言った。
「ドレッシングなんて基本材料混ぜりゃいいんスから、簡単っスよ。気に入ったんならレシピ教えてあげましょうか?」
 言われて思わず頷けばハボックがメモに分量を書いてくれる。渡されたメモにはごくありふれた調味料の名前しか書いてなくて、どうしてこれだけで市販のものよりずっと美味しく感じられるのか、ロイには不思議でならなかった。
「材料ボウルに入れて掻き混ぜりゃ出来上がりっスから。後はレタスでもタマネギでも好きなもんにかけりゃオッケーっス。あ、よっく冷やしたトマトを薄切りにしたのにかけても旨いっスよ」
 メモをしげしげと見つめるロイにハボックが言う。メモから視線をあげて「ありがとう」と言えば、満面の笑みを浮かべるハボックをロイはうっとりと見つめた。
(食事を作ると言われたときはどうしようかと思ったけど……)
 いざ始めてしまえば好きな相手とのひとときはロイの胸を熱く震わせる。
(時間が止まってしまえばいいのに)
 昼間は辛くて仕方なかった二人きりの空間も、時と所を変えてしまえばただ甘く切なくて。
 ロイはこの幸せな時間が永遠に続けばいいと願わずにはいられなかった。


 それでも。
 楽しい時間というのは瞬く間に過ぎるのが世の常というもので、食事の後片付けを済ませたハボックはロイが早く休めるようにとすぐさま玄関へと出ていってしまう。
「それじゃあ失礼します。いきなり押し掛けてメシなんて作ってお騒がせしました」
 ほんの少し苦笑して言うハボックにロイは慌てて首を振った。
「そんな事ない。とっても美味しかった。疲れていただろうにすまなかったな」
「とんでもない。口にあってよかったっス。じゃあ、ゆっくり休んでくださいね」
 ハボックはそう言ってにっこり笑うと玄関を出ていく。よかったらまた来てくれと言いたくて、だがとてもそんな事など口に出来る筈もなく、ロイはただ笑ってハボックを見送ると閉じた扉の中で遠ざかる車の音を聞いていた。音が聞こえなくなって随分と経ってからロイは中へと引き返す。見慣れた部屋の中はいつもと全く変わらないのに、ハボックがいなくなったというだけでやけに薄暗く陰気に沈んで見えた。
「ハボック……」
 ロイはそう呟いてハボックが座っていた椅子に腰を下ろす。テーブルに載せた腕を枕にするように頬を寄せそっと目を閉じた。そうすれば食事の席で楽しげに話すハボックの顔や嬉しそうに笑う声が蘇る。暫くの間そうして瞼の裏のハボックを見つめていたロイだったが、やがて目を開けて体を起こすとそっとため息をついた。
 今夜のこの事はハボックの気紛れに過ぎない。またいつかこんな風に過ごすなど夢のまた夢だろう。
「ハボック……」
 それでもいつかまたもう一度と願わずにはいられない。ロイは緩く首を振ってその願いを打ち消すとのろのろとした足取りで二階の寝室へと階段を上がっていった。


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