果てなき恋のバラード  第八章


「お……終わった……」
 そう呟いたロイの手からコロリとペンが転がり落ちる。そのままバタッと書いた書類の上に突っ伏してしまったロイの下から書類を引っ張りだしたハボックは、精根尽き果てたロイを見下ろして言った。
「お疲れさまっした。これ、出してきたら送りますからちょっと待っててください」
 ハボックはそう言うと手にした書類を他のと併せて抱え上げ執務室から出ていく。バタンと扉が閉まると、ロイは体の中の空気を全部吐き出すような大きなため息をついた。
「しんどかった……こんなキツい書類仕事は初めてだ……」
 普通に書類を処理するのであればどんなに量が多かろうがうんざりするだけで済んだはずだ。だが。
『頑張って、大佐。あともう少しっスから』
 仕事の間中ハボックの監視付きは想像以上にしんどかった。とにかく全く集中出来ないのだ。ハボックは必要以上に話しかけたりはしてこなかったし、コーヒーや菓子を差し入れてロイの息抜きをはかるタイミングもバッチリだった。これがハボックでなければロイの仕事はスイスイと順調に進んだに違いなかった。だが、相手がハボックだというだけでこうも違ってしまうとは。
「はあ……」
 ロイはもう一度ため息をついて目を閉じる。一日中自分がどれだけ緊張して仕事をしていたかに気づいて、ロイは苦く笑った。
「存在感がありすぎるんだ……」
 書類に目を向ける自分の視界に僅かに入る金色の光。そちらへ目を向けないようにするのに必死で、書類に書かれた内容を理解するため、いつもなら一度で済むものを三回も読まなければならなかった。ハボックが少しでも動こうものなら尚の事で、心を落ち着かせようと無駄にコーヒーを呷るものだから、かえってハボックが気を遣ってくれたりしてロイは余計に落ち着かなくなったりしていたのだった。
「はあ……」
 それでも近くに好きな相手がいるということは気分を高揚させもする。結局ロイは書類を書いている間中、無駄にドキドキわくわくソワソワする結果になり、終わってみればいつもの三倍くらい疲れていたのだった。
「ハボック……」
 ロイは自分をこんなにくたびれさせた恋しい男の名を呟く。そうすれば。
「なんスか?」
 突然降ってきた声にくったりと机に懐いていたロイはガバリと飛び起きた。
「な……ッ、あ……」
 目の前にほんの少し驚いたハボックの顔。大好きな空色が間近にあるその状況に口もきけないでいるロイに、ハボックが言った。
「すんません、お待たせして。くたびれちゃったっスよね」
 送ります、という声にロイは慌てて立ち上がる。執務室の扉へと向かえば半歩遅れてついてきたハボックが言った。
「大佐、家になんか食うもんあります?」
「……そうだな、パンとワインくらいなら」
 咄嗟のことに正直に答えてしまえばハボックが眉を顰める。ちょっと考えるそぶりをしたハボックはロイに向かって言った。
「ちょっとその辺でメシでも食って帰りましょうか?」
「えっ?!い、いや、家に帰れば食べるものがあるしっ」
「でも、パンとワインしかないんでしょ?それとも疲れたから真っ直ぐ家に帰りたいっスか?」
 これ以上ハボックが側にいる状況が続いたらハボック過多でおかしくなってしまいそうだ。コクコクと頷くロイにハボックは再び考えていたが、玄関前につけてあった車にロイを乗せるとハンドルを握った。ゆっくりと走り出す車にやっとこれで家に帰れるとロイはシートに身を沈める。だが、ハボックは商店の立ち並ぶ通りで不意に車を停めると肩越しに振り向いて言った。
「すぐ戻るっスからちょっと待っててください」
 そう言うなりロイの返事も待たずに車を降りてしまう。一体どうしたんだとロイが窓から外を伺っていれば、ハボックは五分とかからずに戻ってきた。
「お待たせしました」
 大きな紙袋を抱えて車に乗り込んできたハボックは、助手席に袋を置くとハンドルを握る。そうして再び車を走らせるハボックの背を見つめてロイは首を傾げた。
(買い物?何を買ってきたんだろう)
 そう思いはしたものの尋ねるのもはばかられてロイはキュッと唇を噛む。そうする間にも車は滑らかに走って瞬く間にロイの家へとついた。
「着いたっスよ、お疲れさまでした、大佐」
 いつもよりきっちり車を道路の脇に寄せて停めるとハボックは後部座席の扉を開ける。それに頷いてロイが車を降りれば、ハボックは助手席に放り込んであった紙袋を抱えてついてきた。
「おまえも一日中私につきあって疲れただろう?すまなかったな、今日はゆっくり休んでくれ」
 玄関前のポーチに立つとハボックを見上げてロイが言う。そうすれば片手に紙袋を抱えたハボックが扉の鍵を開けながら言った。
「ろくに食うもんないんでしょ?オレが作りますよ」
「……え?」
「材料、買ってきたっスから。まあ、大したものは出来ませんけど」
 言ってニッと笑うハボックをロイは呆然と見上げる。ハボックはロイを押すようにして中に入ると扉を閉める。手元のスイッチで灯りをつけロイを促した。
「ほら、疲れてるんでしょ?キッチン借りるっスね。オレが準備してる間に風呂でも入ってきて下さい」
 ハボックは言って中へと入っていってしまう。その背を呆然と見つめていたロイはハッとして後を追った。
「待てっ、お前が作るってどう言うことだッ?」
 言って背の高い軍服の裾を掴めばハボックが足を止める。
「だってパンとワインしかないんでしょ?そんなんじゃ腹膨れないっスよ。食べて帰るのもいやだって言うし、疲れてんなら自分で作るのも嫌っしょ?」
「だからってなんでお前がッ」
 漸く一人になれると思いきやそんなことを言うハボックにロイは軽いパニックに陥ってしまう。だが、そんな事には全く気づかずハボックは言った。
「今日一日頑張ったご褒美。オレが作るパスタ結構イケるんスよ?さ、早く風呂行って行って」
 ハボックはそう言って笑うとキッチンを探して奥へと入っていってしまったのだった。


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