果てなき恋のバラード  第十六章


 その日ロイは、昨日の体調不良で先延ばしされた会議に幾つも出なければならなかった。その間にこれまた体調不良で溜まった書類を片づけなければならず、会議室と執務室の往復の間にひたすらサインしまくるというハードスケジュールを余儀なくされた。結果。
「窓の向こうに三途の川が見える……」
 ぺたりと机に頬をつけてロイが呟く。ホークアイは最後の書類をチェックし終えるとロイを見て言った。
「オーケーです、大佐。お疲れさまでした。明日もこの調子でお願いします」
「……明日もあるのか…」
 にっこりと笑うホークアイが、その笑顔とは裏腹な容赦のない言葉を吐くのを聞いて、ロイは明日の我が身を嘆く。そんなロイには気づきもせず、ホークアイは玄関に車を回しておくと言うと書類を抱えて出ていった。
「疲れた……」
 確かに疲れはしたが、それでも仕事に忙殺されたおかげでハボックの事をなんとか心の奥底に押し込めておくことが出来た。ハボック自身、今日は演習だ、外勤だと席に座っていることが殆どなかったせいでロイを構いにくる時間がなかった為、執務室に顔を出さなかったのがよかったとも言える。だが。
「ハボック……」
 目の前の雑事がなくなれば胸の奥底に押し込めた想いがムクムクと頭をもたげてくる。ここ数日の出来事がロイの想いにせっせと肥料を与え、気がつけばハボックへの恋心は包み隠しておくのが難しいほど大きく育ってしまっていた。
「…………」
 ロイは机に懐かせていた体を起こして緩く首を振る。そうして机の上を片づけると静かに執務室を出ていった。


 正面玄関に回された車に乗り込み、ロイは自宅に向かう。日没の時間を過ぎた街並みは急速に暮れて、ロイはあちこちに灯りだした街の灯りを走る車の窓からぼんやりと見つめた。友人同士飲みに出かける人、急ぎ足で今夜の食事の為の買い物をする人、人待ち顔で時計台の下に立っていた女性が、パッと顔を輝かせて現れた恋人に駆け寄っていく姿を見れば、ロイの胸がチクリと痛んだ。そっとため息をついて視線を窓の外の景色から外そうとしたロイの目の端に、金色の輝きがよぎる。ハッとして窓ガラスに額を押しつけるようにして後方を見やったロイは、咄嗟に「停めろ」と叫んでいた。
「ここまででいい!」
「えっ?マスタング大佐っ?」
 自分で扉を開けて車から降りてしまうロイの背に警備兵が慌てて声をかける。だが、それに振り向きもせず、ロイは賑わう通りを行き交う人の間を縫って走った。
「……ッ」
 きょろきょろと見回しながら先ほどの光が見えた辺りを探し回る。だが、目指す姿は見当たらず、走っていたロイの足はだんだんと速度を落としやがてロイはゆっくりと立ち止まった。
「………バカだな、私は」
 もしあれがハボックだったとして自分は一体どうしようというのだろう。見つけたところで声をかける理由もない。結局は遠くから見つめるしかないだろうに。
「…………」
 深いため息をつくロイの肩を行き交う人がドンと押す。ふらりと傾ぐ体を誰かの手ががっしりと引き留めた。
「大佐?こんなところで何してるんです?」
「……ブレダ少尉」
 思いがけない人物をロイは目を瞠って見つめる。暫くそうして見つめていたが、ブレダの手からそっと身を離して言った。
「いや、ちょっと飲みたくなってね」
 ロイはそう言ってブレダを見る。
「少尉は?一人で買い物か?」
 辺りを見回したが連れがいる様子はない。ロイが尋ねればブレダが苦笑して答えた。
「たまにはまっすぐ家に帰ってメシでも作ろうかと思ったんですけど、買い物してるうちに面倒になっちまって……やっぱり食って帰ろうかと」
「そうか」
 一人分の食事など作るには大した手間ではないが、逆に作るのが億劫になってくる。ブレダの気持ちはロイにも覚えがあるもので、思わずクスリと笑えばブレダが言った。
「もしよかったら一緒に飲みませんか?あ、別に(たか)ろうってんじゃないですから」
 言い訳めいた風もなくそう付け足す口振りが、かえってその言葉が嘘ではないと言っている。二人分の飲みしろなどロイにとっては大したものではないが、ロイは笑って頷くと言った。
「どこかいい場所を知っているかい?」
「俺が決めていいんですか?」
 逆に聞き返せば頷くロイに、ブレダは促して歩き出す。さほど遠くない場所にある小さな店の前まで来るとロイを見て言った。
「ここです」
 そう言ってブレダは店の扉を押して中へと入っていく。ロイが後からついてくるのを確かめて、ブレダは奥のボックス席に腰を下ろした。
「いらっしゃい、何にします?」
 二人が腰を下ろせばすぐに店員が寄ってくる。
「とりあえずビール、と、何にします?」
「同じものを」
「かしこまりましたぁ!」
 ロイの言葉に頷いて店員が厨房に向かって「生ふたつ!」と声を張り上げた。その間にブレダがメニューをめくる。
「適当に頼んじまっていいですか?」
「ああ、頼むよ」
 頷くロイにブレダは店員に注文していった。オーダーを繰り返した店員が奥へと戻っていくのをなんとはなしに見送ると互いに視線を戻す。間をおかずに出てきたジョッキを手にするとカチンと合わせて口をつけた。
「あー、やっぱ仕事の後の一杯は旨いっすね」
 プハーと息を吐き出してブレダは言う。本当に旨そうな吐息を吐き出して言うブレダにロイは笑って言った。
「そうだな、漸く人心地ついた気になる」
 そう言いながらジョッキのビールを片手ではなく底をもう一方の手で支えながら飲むロイの様子にブレダはニヤニヤと笑った。
「大佐、ビールのジョッキ似合わないですね」
「そうか?」
 言われてキョトンとする顔が実年齢より幼く見える。ブレダは運ばれてきたサラダをつぎ分けながら言った。
「ワインとかブランデーとかのグラスの方が似合いますよ。こんな店に連れてきちゃって申し訳ないです」
「そんなことないぞ。一人ではなかなか店を開拓もしないしな。それにこういう料理も好きだ」
 ロイはそう言いながらパリッと揚げた熱々のチキンにかぶりつく。ハフハフと言いながら食べる様は本当に旨そうで、ロイの言葉が嘘ではない事を告げていた。
 特に珍しくはないが腹も心も満たされる料理を口にしながら、二人はたわいもない話をする。考えてみればこうして二人で食事をするなど滅多になかったなと思いながらブレダは肉を頬張るロイをそっと見つめた。
『なんかさ、最近の大佐ってワタワタと落ち着かなくねぇ?』
 そうすれば不意に先日のハボックの声が頭に蘇る。心底参ったといった風だったハボックを思い出して、ブレダは内心首を捻った。
(別にそんな落ち着かないってこと、ないよな)
 店に入ってからこっち、二人きりでずっと話しているが司令部にいる時と特に変わった様子もない。薄く笑みを刷いた唇はいつも通りで特に声を荒げるでも口ごもるでもなかった。
『え?なに、オレ限定?』
 自分には特に変わった様子もないと言えば眉を顰めて言ったハボックを思い出す。ブレダはビールのジョッキをテーブルに置くと、ロイをじっと見つめて言った。
「大佐、もしかしてハボックと何かありました?」
「えっっ?!」
 聞かれてロイがギョッとしたように目を見開く。ブレダにじっと見つめられている事に気づいてカアアッと顔を染めた。
「ハボックと何か、って、どういう意味だっ?別になにもないぞッ!あるわけないじゃないかッ!!」
「大佐……」
 真っ赤な顔でそう叫ぶロイをブレダは唖然として見つめる。ブレダが目をまん丸にしているのに気づいて、ロイは慌てて手元の皿に視線を落として言った。
「いや、その……いきなりそんな事を聞かれたから驚いてっ、だからっ、その…ッ」
 そう言いながら皿の上のトマトをフォークでぐちゅぐちゅと突き刺すロイをブレダはじっと見つめる。もごもごと言い訳するロイの耳がトマトと同じくらい真っ赤になっていることに気づいてブレダは目を瞠った。
(おいおい、これってもしかすると……)
 俯いたきり顔を上げないロイを見つめて、ブレダは不意に浮かんだ考えにかける言葉を見つけられなかった。


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