グラプスヴィズの誘惑  第四章


「隊長ッ!!」
「え?……ぐわッッ!!」
 呼ばれた声に顔を上げたハボックは、間近に迫る部下の顔をキョトンとして見る。次の瞬間腹に感じた重い衝撃に、ハボックはガクンと膝をついた。
「すっ、すんませんッッ!!絶対よけると思ってたから……ッ」
 部下のマイクがオロオロとして跪くハボックの顔を覗き込む。ハボックは腹を抱えたまま手を振ると、無理矢理に笑顔を作った。
「いや、いいパンチだったからな、あはははは」
 訓練中、まさか他のことを考えていたとは言えずハボックは言う。込み上げる吐き気をこらえてハボックは立ち上がり休憩を告げた。よろよろと演習場の隅まで歩いてくると崩れるように座り込む。まだ痛む腹をさすりながらハボックの頭を占めるのはロイの事だった。
 ロイと一緒に食事に行くのはさほど珍しいことではなかった。本来なら大佐と少尉、こんな風に親しくつきあう事など考えられなかったが、そこはロイの人徳なのだろう、ハボックはそう考えてロイとの時間を楽しく過ごしていた。時折妙に近くなる距離は、大人のロイにからかわれているのだとばかり思っていたのだが。
『好きだ、ハボック……』
 不意にロイの声が脳裏に響き、それと同時に押しつけられた唇の柔らかい感触が蘇る。ボンッと火がついたように赤くなった顔を抱え込んだ膝の間に埋めて、ハボックは低く呻いた。
(夢じゃないよな……酔ってたけど、へべれけになるほど飲んでねぇし、大体歩いてるうちに殆ど覚めてたし)
 そんな事を考えると家までの道のりを腕を組んで歩いたことまで浮かんでくる。女性と見紛うほど綺麗な顔立ちは、そちらの()のないハボックでもドキドキさせられた。
(好きって……そういう意味……だよな?)
 ハボックは夕べ一晩悶々と考えたことをもう一度考える。そういう意味もなにもキスまでされたのだ。意味をとり間違えようもなかった。
(どうしよう……)
 ハボックは抱えた膝に顎を載せて考える。夕べも一晩考えたが、まだハボックはどうするのが一番いいか決めかねていた。
(勇気、いるよな……)
 いくら上官とはいえあんな風に告白するには相当に勇気がいったに違いない。下手をすれば関係が悪くなって、日々の業務に支障が出ないとは言えない筈だった。
(大佐の事は嫌いじゃねぇけど……)
 ロイが男女を問わず人気があることはよく知っていた。女性とデートする現場しか見たことはなかったが、これだけ綺麗なのだ、男から告白されたこともあるだろうし、その中の誰かとつきあっていた事もあるかもしれない。
(好き……かぁ)
 もやもやとすっきりしない胸を抱えて、ハボックは高く晴れた青空を見上げたのだった。


「戻りましたぁ」
 訓練を終えて司令室の大部屋に戻ってきたハボックはそう言いながら自席の椅子を引く。座面に尻がつくかつかないうち、書類を書いていたフュリーが顔を上げて言った。
「お疲れさまです、少尉。大佐が呼んでましたよ」
「えっ?……あ、そう」
 “大佐”と聞いてハボックはギクリと身を強張らせる。ロイの告白にどう答えていいか決めかねていたものの、一度はちゃんと向き合うべきだと考えていた。だが、会議だ訓練だとすれ違っていると、なんだか言いにくくなってくるのも事実だ。そもそもこんな話仕事中に持ち出すのは如何なものかとも思えてきて、ハボックがなかなか立ち上がれずにいれば、フュリーが不思議そうにハボックを見た。
「行かないんですか?少尉。大佐、待ってるみたいですよ?」
「う、うんっ、行くよ、今!」
 ハボックはへらりと笑って慌てて腰を上げる。ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がったハボックは、執務室の扉を見つめてフュリーに言った。
「なあ、大佐、なんか言ってた?」
「え?いいえ、特には。……なんの用件か、聞いておいた方がよかったですか?」
「や、別にそう言う訳じゃないんだけどっ」
 心配そうに聞いてくるフュリーにハボックは手を振る。ちょっと考えて咥えていた煙草を灰皿に押しつけると、上着の裾を引っ張って皺を伸ばしボタンをきちんと留めた。
「少尉?」
「行ってくる」
 突然身なりを整えるハボックにキョトンとするフュリーにそう言って、ハボックは執務室に向かった。


「ハボックです」
 コンコンというノックの音に続いて入室許可を求める声がする。いつもなら省きたがる手順を踏んで執務室に入ってきたハボックが、きちんと身なりを整えているのを見て、ロイは思わず吹き出しそうになるのをなんとかこらえた。
「お呼びっスか?」
 ピッと背筋を伸ばしてデスクの向こうに立つハボックに、ロイはよけておいた書類を差し出した。
「内容はいいが誤字が多すぎだ。訂正して出し直せ」
「えっ?わ、すんませんっ」
 ハボックは差し出された書類を受け取ってパラパラとめくる。まるで学生のレポートのように赤字で訂正の入った書類を見て、恥じるように顔を赤らめた。
「訂正してきます」
 ハボックはそう言うと書類を手に出ていこうとする。ハボックが掴んだノブを回そうとする前に、ロイはその背に向かって言った。
「私の気持ちは迷惑かな」
 そう尋ねればハボックの肩がビクリと跳ねる。凍り付いたように立ち止まったハボックが、ドアノブから手を離しゆっくりと振り向いた。
「迷惑ならはっきりそう言ってくれ」
 ロイは机に肘をついた手を組んだその上に顎を載せて、振り向いたハボックを真っ直ぐに見る。そうすればじっと見返してきた空色がほんの少し逸れて答えた。
「迷惑なんて事はないっスけど……」
「気持ち悪い?」
「それもないっス。大佐、そんじょそこらの女の子より余程綺麗だし」
 ハボックは女性陣が聞いたら怒りそうなことをサラリと言ってのける。それから困ったように小首を傾げた。
「すんません、正直オレ、よく判らないんス。大佐とメシ食ったり喋ったりするの、楽しいっス。でも、その……」
「そう言った対象として考えたことがなかった?」
「あ、はい。そうっス」
 助け船を出すようにロイが言った言葉にハボックが頷く。ロイは一度目を閉じると手の上から顔を上げて背筋を伸ばしてハボックを見た。
「お前、今男でも女でもつきあっている相手はいるのか?」
「いないっスけど」
「だったら私とつきあってみないか?」
 ロイがそう言えばハボックが空色の瞳を見開く。ハボックが何か言う前に、ロイは立ち上がると机を回ってハボックのすぐ側に立った。
「少なくとも嫌悪感はないんだろう?だったら私とつき合え。そうして少しずつ私のことを知ってくれたらいい」
「大佐」
「決まりだ」
 ロイはそう言って薄く笑みを浮かべた唇で、ハボックのそれが反論を紡ぐのを赦さずに塞いだ。


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