FLARE BLUE  第十七章


 ロイはのろのろと書類をめくりながら壁の時計をチラリと見る。その針がそろそろ業務終了の時刻を告げようとするのを見て、ロイは慌てて目を逸らすと書類に殊更ゆっくりと目を通した。
「失礼します」
 軽いノックの音に引き続いてホークアイが執務室に入ってくる。ロイが読んでいる書類の上に新たに書類を引き寄せて、食いつきそうな勢いで目を通しているのをホークアイは冷めた目で見つめた。
「大佐、そろそろ定時です」
「うん?そうか?だがまだ仕事が終わってなくてな」
 ロイは書類から顔を上げずにそう答える。最後まで目を通した書類をもう一度最初から読み出すロイに、ホークアイが言った。
「今日はもう急ぎの書類はありませんから明日に回して頂いて結構です」
「いやだが、今日出来ることを明日に延ばすこともないだろう?もしかしたら明日事件が起こって、書類を読む時間がなくなってしまうかもしれないじゃないか」
 普段はホークアイに散々尻を叩かれてからようやっと書類に手をつける男とは思えないような台詞を吐く上官を、ホークアイは冷たい目で見つめる。鳶色の視線から逃れるように書類に顔を近づけるロイにホークアイは言った。
「大佐。書類は結構ですから、あのハボックと言う男に事件への協力を取り付けてきて下さい」
「う……っ」
 ストレートにきっぱりと告げられて、ロイは誤魔化す事が出来ずに言葉を詰まらせる。サッと書類を取り上げられて慌てて手を伸ばすロイに、ホークアイが言った。
「タダで協力をしたくなるようなキスをしてやると豪語したのをお忘れですか?──ああ!なるほど……実はキスがド下手だったんですね。それじゃあ仕方ありませんわね、他に方法を────」
「だれがキスがド下手だッ!この私がキスすれば女性でも男でもそれはもうメロメロに────」
 呆れたような哀れむようなホークアイの言葉に思わずカッとなって言い返してしまってから、ロイは慌てて手のひらで口を押さえる。だが一度口から出てしまった言葉を取り消す事は出来ず、ロイは視線をさまよわせた。
「メロメロになれば言うことを聞いて貰うのも簡単ですわね。そう聞いて安心しました」
 だが、ホークアイはそんなロイに構わずににっこりと笑って言う。次の瞬間笑みを消してビシリと言い放った。
「大佐、自慢のキスで今すぐ彼をメロメロにして、事件に協力して貰って下さい」
「…………判った」
 それ以上返す言葉も見つけられず渋々と頷いたロイは、のろのろと机の上を片づけると執務室から出ていった。


「くそう、どうして私がこんな目に……」
 司令部を出たロイはブツブツと呟いて歩いていく。出来ることなら着きたくないとのろのろと歩いてはみたが、進む限りはいつかは着いてしまうものだ。気がつけば目の前に“K”の扉が立っていて、ロイは暫しその扉を睨みつけた。とはいえそうしていても何も解決しないのも確かで、ロイは仕方なしに扉を押し開ける。低く音楽が流れる薄暗い店内をグルリと見回したロイは、目立つ金髪がないことにホッと息を吐いた。
「なんだ、いないじゃないか」
 ロイは確認するように言う。
「折角依頼しようと思って来てやったのに、いないのか。それじゃあ仕方ないな」
 こっちにその気があっても当の相手がいないのではどうしようもない。いかにも残念そうに言うと、ロイは(きびす)を返して店の外へ出た。
「ああ、残念だ。折角来たのになぁ」
 言葉だけは残念そうに、だが顔にはどう見てもホッとしてますとしか言いようのない笑みを浮かべてロイは言う。じゃあ帰るか、と足を踏み出そうとしたロイは不意に目の前を背の高い男に塞がれて、ムッとして視界を遮る厚い胸から上へと視線を上げた。
「邪魔だ、人の目の前に」
 立つなと言おうとしたロイは、その胸の持ち主の顔を見て目を見開く。まん丸に見開く黒曜石を覗き込むようにして、ハボックが言った。
「嬉しいなぁ、依頼しに来てくれたんだ」
「な……ッ、あ……っ」
 にっこりと笑う空色にロイは言葉を紡げず口をパクパクとさせる。咄嗟に行動を起こせないでいるロイの腕をとって、ハボックは店の中に入っていった。カウンターのスツールにロイを座らせその隣に腰掛けると、小首を傾げて尋ねた。
「で?支払いはどういう形で?一億センズをキャッシュで?それとも」
 キスで?と耳元で囁かれ、ロイはビクリと体を震わせる。間近に迫る空色に飲まれたように目を見開いたまま見つめてくるロイに、ハボックはクスリと笑った。
「やっぱアンタ可愛い」
 そう言って目を細めるハボックに、ロイの心臓がドキリと跳ねる。そのまま息がかかるほどの距離で見つめあっていたが、やがてロイはゴクリと唾を飲み込んで言った。
「この間言ってた支払い方法、少し変えてくれ」
「いいっスけど……どういう風にしたいんス?」
 真剣な光をたたえて見つめてくる黒曜石に、ハボックが一つ瞬いて答える。どうしたいんだと尋ねられ、ロイは何度も唾を飲み込んでから言った。
「とびきりのキスをしてやる。支払いはそれだけ、追加の百万センズはなしだ」
「────へぇ?」
 思いがけない提案にハボックの瞳が面白がるような光をたたえる。ロイはそんなハボックを睨みつけて言った。
「どうなんだ?それで捜査に協力するか?」
「軍って意外とケチなんスね」
 百万も払えないなんて、と呆れたようにハボックが言う。
「アンタ、高給取りなんでしょ?高い給料は払えてもしがない街の何でも屋に払う金はないって事っスか?」
「いいからどうなんだッ?支払いはそれでいいのか、悪いのかッ?」
 キッと目を吊り上げて繰り返すロイの目元がうっすらと紅く染まっているのを見て、ハボックは笑みを浮かべた。
「いいっスよ。オレが満足するようなキスしてくれたら、依頼料はキスだけでいいって事にしてあげます。その代わり大したことなかったら依頼料は五百万ですからね」
「────いいだろう」
 跳ね上がった依頼料にも構わずロイは低く答える。それを聞いてハボックは咥えていた煙草を灰皿に押しつけた。


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