千年樹 〜eternal green〜 (第九章)


「どこだ、ここは」
 目を開いたロイは目の前に広がる荒涼とした空間に目を瞠る。さっきまで自分はハボックの病室にいたはずだ。
「夢…か?」
 それにしては踏みしめる小石の感覚が妙にリアルだ。ロイは用心深く辺りを見回すと慎重に足を踏み出そうとした。その時。
 ゴオオッと突風が吹き、ロイは思わず腕で顔を覆う。
「…たいさ?」
 驚いたように呟く声にハッとして腕を下ろせば目の前に呆然としたハボックが立っていた。
「ハボックっ?お前…っ」
 さっきまで病院のベッドでたくさんの管に繋がれていたハボックが目の前に立っている事に驚いて、ロイは思わずハボックに駆け寄る。
「お前、一体どういう…」
 尋ねようとしてロイは一瞬口を噤み、最初に聞こうとしたこととは別のことを聞いた。
「ここはどこだ?」
「よく判んないっスけど…オレ、さっきまで河のほとりにいたんです」
 ハボックの言葉にロイは一瞬目を瞠り、それからふんと鼻をならした。それからハボックが握り締めた小瓶に気づき尋ねる。
「それは?」
「あ、これはさっき綺麗な女の人が…この水を飲んで立てた誓いは誰も破ることを赦されない聖なる誓いだって」
 困ったように言うハボックの手の中の小瓶をロイは暫く見つめていたが、手を伸ばすと奪い取るように小瓶を取った。
「たいさっ?」
「破ることを赦されない聖なる誓い、か」
 ロイはそう呟くように言うと小瓶の蓋を取り口をつけた。一口飲むとハボックをまっすぐに見つめて言う。
「愛している、ハボック。これまでも、今も、これからも、永遠に。決してお前を一人にはしない。どこへ行こうといつであろうとずっと一緒だ」
 ハボックはロイの言葉をポカンとして聞いていたが、次の瞬間みるみるうちに真っ赤になった。
「ア、ンタ、なに言って…っ」
「私は誓ったぞ。お前はどうする。まだ自分の気持ちからも私の気持ちからも逃げ回る気か?」
 そう言われてハボックは目を瞠ると唇を噛み締めて俯く。色んな想いと怖いと思う気持ちが渦巻いてどうしてよいか判らず目をつぶろうとした時、不意にヒューズの言葉が蘇った。
『後悔するくらいならとっとと戻って言えばいいだろう』
『俺のことを思ってくれるなら幸せになってくれ』
 ハボックは顔を上げるとロイをまっすぐに見つめて言う。
「オレも…オレもたいさが好きです。ずっと一緒にいたい…アンタがイヤだって言ってもずっとついてくから…っ」
 そうしてロイの手から小瓶を取ると水を飲んだ。ロイはそんなハボックを見つめると金色の頭をくしゃりとかき混ぜる。
「イヤだなんていうわけがないだろう」
 そう言うとハボックの顔を引き寄せ軽く口付ける。ロイの体が金色に輝いて輪郭がゆっくりとぼやけていった。
「向こうで待ってる」
 ニッと笑うと同時にロイの姿が消えうせ、ハボックはひとり取り残される。手の中の小瓶に目をやればきらりと輝いて弾けて消えた。ハボックは虹色に輝くを空へと視線を投げる。
「ありがとう、中佐」
 そう囁いたと同時にハボックの体が金色に輝いて、そうして。
 もうそこには誰の姿も残ってはいなかった。


「…あ」
 ロイはパッと目を開くと辺りを見回す。目の前には病院のベッドとそこに横たわるハボック。ロイの手はハボックのそれを握り締めたままだった。
「今のは…」
 夢にしてはあまりにリアルだ。ロイは手にした小瓶の感触も口に含んだ水の冷たさもはっきりと思い出すことが出来た。なんだったのかとロイが考えていると、握ったハボックの手がぴくりと震えて。
「っ?ハボックっ?」
 慌ててハボックの顔を覗き込めば金色の睫が震えてゆっくりと目を開いた。
「たいさ…?」
 見上げてくる空色の瞳にロイは泣きそうに顔を歪める。
「ハボック…」
 ロイはありったけの想いを込めて名を呼ぶとゆっくりと口付けていった。


「それじゃあ、あれは単なる夢ではなかったんだな」
 ロイは診察を終えてベッドヘッドに体を預けて座っているハボックに言う。よく判らないと言う風に首を傾げているハボックにロイは言った。
「お前が見たのはステュクス河だろう。その後会ったのはイリスだな」
「イリス?」
「女神の名だ。はるか昔、神々は大切な誓いを立てるとき、使者のイリスが持ち帰ったステュクス河の水を飲んで誓いを立てたんだ。その水を飲んで立てた誓いは決して破ることが赦されず、破った者は9年間眠りにつかなくては いけないというんだ」
 ロイはそう言うとハボックを見てニヤリと笑う。
「そういうわけだ、ハボック。誓いを破ると9年も眠ってなきゃいけない事になる」
「あれがイリスかも、飲んだのがステュクス河の水かも判んないじゃないっスか」
 眉を顰めて言うハボックをロイはじっと見つめた。その強い視線に堪らず目を逸らそうとするハボックにロイが言った。
「目を逸らすな」
 びくりと震えておずおずとロイを見上げるハボックをまっすぐに見つめるとロイは口を開く。
「あの時誓ったあの言葉は嘘か?」
 そう言われてハボックは僅かに目を見開いた。それから小さく首を振る。
「嘘じゃないっス。オレ…」
 ハボックは数度瞬くとロイの瞳をまっすぐに見つめて言った。
「アンタが好きです」
 ハボックの言葉にロイは嬉しそうに笑うとベッドに手をついてハボックに口付ける。大人しく受け止めていたハボックは段々と深くなっていくそれに慌てて顔を逸らした。
「ちょっと…っ、何考えてるんスか、アンタっ」
 頬を赤らめてそう言うハボックにロイはにんまりと笑う。
「今すぐ抱きたい」
「…は?」
「思い切り啼かせてやりたい」
 平然と言ってのけるロイにハボックは絶句して口をパクパクとさせた。何度も唾を飲み込むとようやく声を振り絞って言う。
「オレっ、大怪我してんですけどっ」
「優しくしてやる」
 ロイはそう言うとするりとハボックの頬を撫でた。びくりと体を震わせるハボックに、ロイは耐え切れずに噴き出す。
「期待したか?」
「な…あ…」
「いくら私でもそこまで鬼畜じゃないぞ」
 ムリもできないしな、とニヤニヤと笑うロイにハボックは真っ赤になって怒鳴った。
「この…エロオヤジっ!!」
「褒め言葉だと思っておこう」
 ロイはそう言うとハボックの頬にキスを落とす。
「楽しみにしておくんだな」
ニヤリと笑って言うロイをハボックは紅い顔で睨みつけるしかなかった。


「やっと帰ってこられたな」
 ロイはようやく退院したハボックを家の中へと通しながら言う。困ったように笑うハボックにロイは言葉を続けた。
「大体こうしょっちゅう入院されてたんじゃおちおちサボってもいられん」
 手が足りないのにと中尉が煩くてな、とぼやくロイにハボックは苦笑する。
「ご迷惑かけてすみませんでした」
 素直にそう詫びればロイがニヤリと笑った。
「体で払って貰うから構わないさ」
 ニヤニヤと笑うロイをハボックは紅くなって睨みつける。
「何言ってるんスか、アンタはっ!」
 そんなハボックをロイはグイと引き寄せて耳元に囁いた。
「随分長いオアズケだったからな」
 今夜が楽しみだ、と笑って奥へと入っていくロイの背を見送って、ハボックは真っ赤になって立ち尽くしたのだった。


「はい、どうぞ」
 夕食を終えてハボックはソファーに座るロイの前にコーヒーのカップを差し出す。落ち着かなげに立ったまま視線を彷徨わせているハボックに、ロイはくすりと笑うと言った。
「座ったらどうだ」
「えっ、あ、や、その…」
 しどろもどろのハボックの様子にロイは耐え切れずに噴き出してしまう。
「まだ何もせん。それとも何かして欲しいのか?」
「…そんなことあるわけないでしょ」
 ハボックは目元を染めてロイを睨むとソファーに腰を下ろす。視線を落としながらコーヒーを啜るハボックをロイはじっと見つめた。無言のまま見つめてくるロイの強い視線に、耐え切れなくなったハボックは上目遣いにロイを見上げると聞く。
「なんスか?」
 聞いても口を開こうとしないロイにハボックは首を傾げた。何か気に触るようなことをしただろうかと不安になって恐る恐るロイのことを呼ぶ。
「たいさ…?」
 不安そうな色を浮かべる空色の瞳にロイは笑い返すと言った。
「お前がここにいることの幸せを噛み締めていた」
「は?」
 ロイはそう言うと立ち上がってテーブルを回りハボックの隣りに腰を下ろす。ハボックの手からカップをとりあげてテーブルの上に置くと言った。
「ずっと待っていたんだからな。お前が私の為にここにいてくれることを」
 ロイはそう言ってハボックの頬に手を添える。
「そう思っていいんだろう、私の為にお前はここにいるんだと」
 ハボック、と甘く呼ぶ声にハボックの心が震えた。小さく頷くハボックにロイは唇を重ねる。深く深く貪るようなキスを交わして、力の抜けた体をロイに預けながらハボックが言った。
「まだ何もしないって言ったくせに…」
「そんな昔のことは忘れたな」
 平然と言ってのけるロイにハボックは幸せそうに笑った。


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