千年樹 〜eternal green〜 (第八章)


「かなり危険な状態です」
 そう告げる医師の言葉にロイは唇を噛み締める。事件から丸一日以上経った今になってもハボックの意識は戻らなかった。
 倒れ付したハボックを抱き起こした時、ハボックはピクリとも身動きしなかった。ほんの数ヶ月前、同じように倒れたハボックを抱きしめた時はロイの声に反応して言葉を交わすこともしたハボックだったが、今回はまるで精巧に作られた人形のようにほんの僅かな反応すら見せることはなかった。ハボックの体を抱くロイの手や体を濡らすハボックの血が温かいことだけがハボックが生きた人間であることを知らせ、そうして流れる出る血がロイの軍服に染み入って瞬く間に冷えていくことが、ハボックの命がどんどん零れ落ちていくようでロイの心を恐怖に陥れた。そして今、ベッドに横たわるハボックの顔からは血の気が引いてまるで人形にしか見えなかった。
 綺麗な空色の瞳は堅く閉ざされ、未来永劫開かないのではないかと錯覚させる。ロイはベッドの側の椅子にどさりと腰を下ろすとハボックをじっと見つめた。ロイが言葉もなくハボックを見つめていると控えめなノックの音がして病室の扉が開く。中へ入ってきたブレダがロイの背後から声をかけた。
「あの男、薬物中毒だったそうです。借金に借金を重ねて薬を買い続けて、それでももう薬を買う金も底をついてあの時は禁断症状による錯乱状態だったって言ってました。あの男を連れてきた佐官はそんなことにはまるで気がつかなかったって話です」
 ふざけた話っすよ、と呻くように言うブレダにロイは小さく「そうか」とだけ返す。それ以上口を開こうとしないロイにブレダは躊躇うように言った。
「俺、見てたんですよ、ハボックが動くの。でも咄嗟に出られなかった。あの時少しでも援護してやれたら…」
 だが、実際あの会議が終わった後の雑然とした中、おそらくは銃を構えることすらままならなかったであろう状況下で、一体どれ程の援護が出来たかといえば甚だ疑問ではあるのだが。それでもブレダは考えずにはいられなかった。手のひらを握り締めて黙り込むブレダにロイがポツリと言った。
「笑ったんだ、あの時」
「え?」
「私を引き倒した後、男に向かっていこうとするハボックを呼んだ時、ちらりと振り返って笑ったんだ」
「大佐…」
 ロイは話しながらあの時のハボックを思い出していた。あの場には似つかわしくない、それはそれは綺麗な微笑み。今、ハボックの顔からはその微笑のかけらすら伺うことは出来ない。病室の中には酸素マスクを通しての微かな呼吸音と、心電図や他の機材の動作音だけが響いていた。ロイは堅く閉ざされたハボックの瞳を睨みつけて呻くように言った。
「赦さないからな、勝手に終わりにするなど、絶対に赦さない」
「大佐」
 まるでそこにブレダがいることなど忘れてしまったかのように囁くロイの様子にブレダは息を飲む。そうしてハボックを食い入るように見つめるロイにブレダはかける言葉を見つけられず、静かに病室を出て行った。


 ハボックは目の前に広々と横たわる河を見つめてため息をついた。そのほとりに腰を下ろすと膝を抱える。
「これがいわゆるステュクスって河かな」
 黄泉の国タルタロスを流れるステュクス、渡し守のカロンが死者を渡すという河だ。渡し守なんてどこにいるんだろう、などと思いながらハボックは抱えた膝に頬を載せた。
(この河を渡ったらもう二度とたいさには会えないんだ…)
 そう思った途端、心臓がキュッと縮まったような気がする。ハボックはそんな自分を嘲笑うように唇を歪めると呟いた。
「死んじゃうんだったら一度くらい好きだって言っておけばよかった…」
 ヒューズのことがあって、ロイと肌を合わせるようになって、きちんと始めたいと向き合おうとしてくれたロイに彼への想いを自覚してからも、ハボックはその想いを口にすることは出来ないでいた。すっかり臆病になってしまった心は苦しいほど身のうちにその想いを抱え込んでいてさえそれを吐き出すことを赦さなかった。
「たいさ…」
 ロイの強い意志を宿す黒い瞳を思い浮かべてハボックが囁いた時。
「後悔するくらいならとっとと戻って言ってくりゃいいだろうが」
 懐かしい声にハボックがガバッと顔を上げると、目の前の河にヒューズが立っていた。
「ちゅ…さ…」
 信じられないと言うように呟やいて、よろよろと立ち上がりヒューズの側に行こうと河へ足を踏み入れようとするハボックにヒューズの鋭い声が飛ぶ。
「来るんじゃねぇよ」
 その声に縫い付けられたように足を止めてハボックはヒューズを見た。
「河に入るんじゃない、引きずり込まれるぞ。お前は帰るんだろうが」
「ちゅうさ…」
 ヒューズに会ったら言いたいことがいっぱいあったように思うのに、いざ目の前にすると何も言葉が出てこない。食い入るように見つめるハボックにヒューズはふっと笑った。
「もう、自由になっていいんだよ、ハボック」
「…え?」
「俺とのことでお前がずっと罪の意識に苛まれてたことを、自分を責めてたことを俺はずっと知っていた。知っていて見ないフリをして、お前に甘えてたんだ」
「ちゅうさ…?」
「お前を傷つけて傷つけて、それでもどうしても手放せなかった」
 ヒューズは躊躇うように一呼吸置いて、そうして言う。
「赦してくれ、ハボック」
 泣きそうな顔で笑うヒューズにハボックは思わず数歩踏み出した。
「な…ちゅうさっ!」
「来るなって言ってんだろうっ!」
 ヒューズは常磐色の瞳を細めてハボックを見つめる。
「お前がまだ少しでも俺のことを思ってくれるなら、どうか幸せになってくれ」
「ちゅう…」
「ありがとう、ハボック」
 ヒューズが囁くように言った途端、二人の間を隔てる河が何者かによって高い水しぶきを上げる。煌めく滴と共に銀色の鱗が河に戻って行った後、もうそこにはヒューズの姿はなかった。ハボックは暫くの間河の流れを見つめていたがくしゃりと顔を歪めると呟く。
「オレの方こそありがとうって言わなきゃなのに…」
 ハボックは溢れそうになる涙を手の甲で乱暴に拭うと河に背を向けた。だが、目の前に広がる荒涼とした風景に思わず息を飲む。
「…帰りたいけど、どうやって帰ればいいのか判らないっスよ、ちゅうさ」
 ハボックはそう呟いて、それでもゆっくりと足を踏み出した。ざくざくと足元の小石を鳴らしハボックは歩いていく。もう随分歩いたように思えて後ろを振り向いたハボックはまだすぐそこに河が流れているのを見て、絶望に目を見開いた。
「たいさ…」
 零れるように会いたい人の名を呼ぶ。
「たいさ…っ」
 悲鳴のようなハボックの声が辺りに響いたその時。ハボックの目の前に虹色の光が輝いたのだった。


 昏々と眠り続けるハボックの手をロイはギュッと握り締める。その手を額に押し当てると怒りの滲む声で呟いた。
「勝手に終わりになどさせない。戻って来い、ハボック」
 ロイはそう呟いて握る手に力を込める。まだ二人で始めてもいないのだ。すっかり臆病になったハボックを追い込むようなことはしたくないとそう思って焦るまいと決めていた。だが、臆病になるあまり始めてもいないものを勝手に終わりになどされては堪らない。
「ハボック」
 ロイは堅く閉ざされた目蓋の向こうの空色を想い描いてハボックを呼ぶ。
「私はここだ、ハボック。ここにいる」
 ロイは低く呟くと目を閉じたのだった。


 眩しい光がゆっくりと収まって、ハボックはそっと目を開いた。そうして、目の前に立つ麗人に目を瞠る。虹色の衣をまとったその人はハボックに向かって言った。
「ここで何をしている。死者ならステュクスを渡ればよかろう」
 力のある冷たい声にハボックは押されるように数歩後ずさる。すぐ背後に河がある事に気づいてハボックは首を振った。
「渡りたくない。オレはまだ死ねない。だって大佐は誓ってくれたのに、オレを一人にしないって誓ってくれたのにオレは大佐にちゃんと答えを言ってないっ!」
 振り絞るように言うハボックを見つめていたその人は暫く黙っていたがやがてゆっくりと口を開いた。
「お前もその大佐とやらに誓いを立てたいのか?」
「え?」
「ではこの水を持っていけ。この水を飲んで立てた誓いは誰も破ることの赦されぬ聖なる誓いだ」
 差し出された小瓶をハボックは引き寄せられるように手に取る。ハボックが小瓶と目の前の人を見比べて口を開こうとするより早く、その人が言った。
「呼ぶ声のする方へ行け」
 その途端、ハボックの頭にロイの声が響き渡る。
『ハボック!』
「え、あ…たいさ?」
 ザアアと風が吹き荒れハボックの体を包み込んだと思った次の瞬間。
「うわっ!」
 ハボックの体は何者かに引き寄せられるようにぐわあと空へと吹き上げられたのだった。


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