カストルはポルークスの夢を見るか  第九章


 ハアハアと肩で息をしながら蹲っていたハボックはやがてよろよろと立ち上がった。覚束ない足取りで寝室を出ると階段を下りていく。そうしてそのまま玄関まで行くと鍵を開けて外へと出ていった。

「……不用心だな、鍵が開いてる」
 早々に仕事を切り上げて家に戻ったロイは、鍵を開けようとした扉が既に開いていることに気づいて呟く。そっと扉を押し開き、奥へ向かって声をかけた。
「ただいま」
 だが何の返事も返ってこないことを訝しんでロイは眉を顰める。
「眠ってるのか…?」
 あれからまた具合が悪くなったのだろうか。もしそうなら一人にするべきではなかったとロイは思いながら階段をあがる。ハボックが寝ていた筈の寝室の扉を開けたロイは、誰の姿も見あたらない部屋に目を見開いた。
「いない?…ハボック?」
 どこかに倒れでもしてるのではないか。ロイはハボックの姿を探して他の部屋を見て回る。バンッと開いた部屋の床に鏡の欠片が散乱しているのを見て息を飲んだ。
「な……、これはっ?」
 ロイは慌てて部屋の中に入るとクローゼットの前に転がるラジオを拾い上げる。打ち壊された鏡と辺りに散らばる破片、傷のついたラジオを見比べてロイは呟いた。
「叩き割ったのか?何故?」
 もしかしてまたジャクリーンが現れたのだろうか。そうだとしても鏡を壊した理由が判らない。
「………」
 ロイはぞくりと身を震わせると寝室を出て家の中を探し回る。どこにもその姿がない事を確認したロイは、ハボックの姿を求めて外へと飛び出していった。

 よろよろとした足取りで当てもなく歩いていたハボックは、いつしか繁華街へと足を踏み入れていた。目映い灯りが目に突き刺さるようでゆるゆると首を振る。そんなハボックを行き交う人々が邪魔だとばかりに押し退けて歩いていった。
「なにヨタヨタしてやがんだ!もう酔っぱらってんのか?」
 まだ夜もさほど更けていない時分、酔いに足をふらつかせる人も殆どいない。突き飛ばされてハボックは、肩をぶつけた街灯に縋りついた。
「う……ぁ………」
 街灯に縋りついたままハボックは賑わう通りを見つめた。行き交う人々の姿が、街を包むざわめきが徐々に大きくなりハボックをゆっくりと飲み込んでいく。いつしかハボックの意識は過去の出来事へと滑り落ちていった。

「くそ……まだいるのかよ」
 テロリスト達のアジトへ踏み込んだハボック達は、激しく抵抗してくる犯罪者達を片端からなぎ倒して奥へと進んでいく。最後まで抵抗を続ける残党を制圧すれば作戦は終了する筈だった。
「もう抵抗したところで意味ねぇんだから大人しく投降すりゃいいのに」
 ハボックがげんなりとそう言えばすぐ傍にいた軍曹が苦笑する。その時現れた銃を持った男に容赦なく弾丸を叩き込んでハボックに言った。
「既に幹部の身柄は拘束してますし、この先にゃもう殆ど残っちゃいない筈ですがね。さっきから投降を呼びかけちゃいますが、まあ向こうにしてみりゃ最後に一矢報いなきゃやってられないってことなのかもしれませんが」
「だからって死んじまったら元も子もねぇだろうに」
 そう言って鼻に皺を寄せるハボックを軍曹は好ましく見上げた。たとえ犯罪者だろうと意味のない殺生を嫌う年若い上官を、腑抜けだと罵る輩がいないわけではないが、ハボックの考え方の方が人の感情として真っ当だと軍曹は思っていた。それでも目の前に出てくる奴らが明らかな害意を持っていれば討さない訳にはいかない。漸くハボック達が残りのテロリスト達を押さえ込んでアジトの制圧を終えた時には更に一時間ほどが過ぎていた。
「これで全部……ですかね」
 ふぅと息を吐いて軍曹が言う。ハボックは部下達に辺りを調べるよう指示を出すと転がっていた椅子を引き起こして腰を下ろした。
「やっとこれで帰れる」
 そう言ってハボックが肺の中の空気を吐き出した時。
 カチリという金属音にハボックは振り向きざま銃を抜く。現れた人影に反射的に銃弾を打ち込んでしまってから、ハボックはその空色の瞳を大きく見開いた。
「こ…ども…っ?!」
 ハボックの放った銃弾に血しぶきをあげて倒れる細い体をハボックは腕を伸ばして抱きとめる。撃鉄をあげる音と勘違いした金属音が、子供の手から滑り落ちた玩具の金具が出した音だと気づいて息を飲んだ。
「どうしてこんなところに子供がっ?」
 子供を抱き抱えるハボックに駆け寄りながら軍曹が叫ぶ。その時、近くの物陰から細い悲鳴が聞こえて、小さな塊が飛び出してきた。
「ダニエルっ、ダニーッ!」
「…ッ」
 ハボックの腕の中の子供に縋りついてきたのは、その子供より僅かに年かさの8才ほどの男の子だった。
「ヤダっ、ダニー!目を開けてッ!」
 命の宿らぬ虚ろな瞳を宙に向ける子供と縋りついて泣き叫ぶ少年の姿を見つめながら、ハボックは冷えていく細い体を呆然として抱きしめていたのだった。

「あの子供達はテロリストの子供でした」
 司令部に戻ったハボックに軍曹がやってきて言う。小隊の詰め所の窓に寄りかかって外を見つめたまま答えないハボックの横顔を見つめながら軍曹は続けた。
「親のテロリストはさっさと逃げ出しちまって子供は足手まといだと置き去りにしたようです。死んでも構わないと思ったんでしょう」
 酷い親です、と言う軍曹の言葉にハボックは己の手を見つめる。さっきまでその手は撃ち殺してしまった子供の血で真っ赤に染まっていた。今は洗い流して何の痕跡も残らない手のひらを食い入るように見つめるハボックに軍曹は言った。
「仕方ありません、あの状況下だ。あたしが隊長だとしてもきっと撃ってます」
 下手な躊躇いは己や仲間の命を危うくする。突然現れた人影に銃弾を撃ち込んだとしても、ハボックを責められる人間はいないはずだった。しかもハボックが狙った場所は大人の男なら腿に当たる場所だった。相手が子供であったばかりに起きてしまった事故だと軍曹は言ったが、思い詰めた瞳で手のひらを見つめるハボックにその言葉が届いているかは判らなかった。

「隊長、今日もし時間がおありでしたら銃の手ほどきをお願いしたいんですがっ」
 司令室で書類に向き合っていたハボックのところへ小隊の部下達が来て言う。ハボックは弾かれたように書類から顔を上げたハボックは一瞬目を見開いて部下の顔を見つめたが、引きつった笑いを浮かべて答えた。
「判った、すぐ行くから先に行っててくれ」
「はいっ、ありがとうございますっ」
 嬉しそうに敬礼を返して司令室を出ていく部下達の背中を見送ってハボックは書類を持つ手を見つめる。僅かに震えるその手をもう片方の手で押さえ込むと、ハボックは司令室を出ていった。

「お前の場合は脇の引き締めが甘いんだよ。だから」
 ハボックはそう言って銃を構えてみせる。だが引き金を引こうとして込み上げてきた吐き気に、口元を押さえて蹲った。
「隊長っ?どうしたんすかッ?」
 慌てて駆け寄ってくる部下の手を振り払ってハボックはよろよろと立ち上がる。
「だ、大丈夫ですかっ、隊長っ」
「何ともない……すまん、悪いがここまでにしてくれ……」
 おろおろとする部下を押し退けるようにして、ハボックは逃げるようにその場を後にした。

 カチリと言う音にハボックは銃を手に振り向く。周りに広がる闇にハボックは必死に目を走らせた。だが、誰の姿も見当たらずハボックは強張った身体から力を抜く。その途端再びカチリという音が聞こえてハボックは音のする方へと手にした銃を撃った。
『ど……して』
 銃を撃ち込んだ場所からゆらりとまろび出た細い人影がそう呟く。幼い子供は胸から血を流しながらうつろな瞳でハボックを見た。
『なんで僕を撃つの…?』
 血塗れの手を伸ばしてハボックに縋りついてくる子供を食い入るように見つめたハボックの唇から悲鳴が迸った。

「うわあああッッ!!」
 ハボックは叫び声を上げて飛び起きる。ハアハアと肩で息をしながら薄闇を睨むように見つめていたハボックは、やがてゆっくりとベッドから立ち上がった。ふらつく足取りで洗面所に入ると蛇口を捻り水を出す。ザアザアと流れる水の下に頭を突っ込むと水を被っていたハボックは顔を上げて目の前の鏡を見た。ポタポタと金髪から水を滴らせる自分の顔を見つめていたハボックは、急激に息が詰まって濡れたシャツの胸元を握り締めた。
 「はあッ…ハッ…ハ……」
 空気を求めて縋りついた鏡の中の男の瞳がアイスブルーに輝いたかと思うとハボックを見る。
『お前の苦しみ、俺が引き受けてやろうか…?』
「……え?」
『寄越せよ、そうしてお前は全部忘れちまえばいい』
 そう言って笑うジャクリーンをハボックは呆然として見つめた。


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