セレスタの涙、オニキスの誓い  第九十一章


 訓練を終えて演習場を後にする。後から歩いてくる仲間に次々と追い越されながら、ハボックはゆっくりとした足取りで司令部の建物に向かっていた。
(こんなに遠かったっけ……)
 歩いても歩いても建物が近づいてこない気がする。それでも倒れ込みそうになる足を叱咤して歩いて行けば漸く建物の入口が見えてきて、ハボックはホッと息を吐いた。
 扉を抜けて中に入りロッカールームへと向かう。やっと辿り着いたロッカールームに入れば中にはもう殆ど人は残っておらず、残っている者ももうとっくにシャワーを済ませて出ていくばかりだった。だが、かえって一人遅れた事にハボックはどこかホッとする。汗と埃に塗れた服を脱ぎ捨ててシャワールームに入り、ブースの一つに入った。シャワーを出し降り注ぐ滴の下に頭を突っ込む。その途端、フッと目の前が暗くなってハボックはブースの壁に手を突いた。
「…………っ」
 たった一度訓練に参加しただけだというのにこの疲労度はどうだろう。情けなさに涙の滲む目をギュッと瞑った時、背後から肩を掴まれてハボックはギョッとして振り返った。
「大丈夫かよ」
「────あ、ああ」
 もう誰もいなくなったと思っていたシャワールームの中、残っていたのはダグラスだった。顔を引きつらせて答えたハボックが身を捩るようにして肩を掴んだ手を振り払えば、ダグラスは大人しく手を離す。そのまま隣のブースに入っていくのを肩越しに見送って、ハボックは急いでシャワーを浴びた。ブースの壁に引っかけてあったタオルを掴み足早にシャワールームを出る。そうすれば濡れた床を歩く足音がついてくるのが聞こえて、ハボックはゾッと背筋を震わせた。手早く服を身につけながらハボックはダグラスの視線を感じる。なるべくそちらへ目を向けないようにしていると「なあ」と話しかけてくるダグラスの声が聞こえた。
「病気療養中だったって?なんの病気だったんだ?」
「……アンタに関係ないだろう」
 尋ねる言葉にハボックは素っ気なく返す。乱暴にロッカーの扉を閉め出ていこうとするハボックの前にダグラスが立ちはだかった。
「────なに?」
「────別に」
 睨んでくる空色にダグラスが答える。ダグラスの横をすり抜けてロッカールームの外へと出ていきながら、ハボックは体の震えを必死に押さえ込んでいた。


 長い一日を終えてハボックは司令部の廊下を歩いていく。俯けていた目を上げれば、夕日が射し込む廊下の先にロイが立っているのが見えた。引きずるようにして歩いていた足を止めるハボックにロイが近づいてくる。カッカッと響く靴音を聞きながらハボックは夕日を浴びる背筋のピンと伸びた姿を見つめた。
「今日はもう終わりか?」
「……はい」
 尋ねてくる黒い瞳にハボックが小さく頷く。ロイはうっすらと笑みを浮かべて言った。
「そうか。なら一緒に帰ろう」
 言って歩き出すロイの背を追って、ハボックもまた廊下を歩いていった。


 二人で家に戻るとそれぞれにシャワーを浴びる。自室に割り当てられた部屋に付属のシャワールームで汗を流したハボックが出てくれば、キッチンからいい匂いが漂ってきていた。
「大佐、オレがやるっスよ」
「いいから座ってろ。どうせ焼くだけだ」
 そう言って手を振るロイにハボックはソファーに腰を下ろす。ため息をついて目を閉じたハボックは、そのまま引き込まれるように眠ってしまった。


 簡単に夕食の準備が済ませられるよう、昼休みにホークアイに買ってきて貰った下拵えを済ませた肉をロイは手早く焼き上げる。付け合わせの野菜と一緒に盛りつけ、デリのスープと温めたパンをテーブルに運んで、ロイはハボックを呼んだ。
「ハボック」
 少し待ったがハボックが来ないのを訝しんで覗きに行けば、ソファーに倒れ込むようにして眠っているハボックの姿を見てロイは目を見開いた。
「ハボック」
 まだたった一日目だ。それでもこんなに疲労困憊しているハボックを見れば胸が痛んだ。
 ロイは手を伸ばしてハボックの金髪に触れる。シャワーを浴びてまだ湿り気の残るそれを優しく梳いてやれば愛しさが募った。
「愛してる、ハボック……」
 このまま誰にも触れることが出来ない場所に閉じこめて、大事に大切に護ってやりたい。だが、誰よりも当のハボックがそんな事を望んではいないことはよく判っていて、ロイはハボックを見つめる瞳を辛そうに細めた。ハボックが眠るソファーに手をつき顔を寄せる。
「愛してる……愛してるよ、ハボック」
 眠るハボックを愛しそうに見つめて、ロイはハボックの唇にそっと口づけた。


 広々と広がる空の下、気がつけばハボックはガラスの面を湛える湖の中央に佇んでいる。細く息を吐き出しそっと目を閉じたハボックは、空気を震わせる優しい響きに閉じた目を開けた。そうすれば高い空から小さな、だが優しい輝きを帯びた小さな光が降ってくる。ハボックが差し出した手の上に落ちると同時に弾けたそれから聞き取れないほど小さな声が聞こえた。
「大佐……」
 手の上で弾けたそれをハボックはそっと握り締め胸元に引き寄せる。
「オレも……オレも愛してるんです」
 現実では思うように口には出来ない想いを囁いて、ハボックはそっと目を閉じた。


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