セレスタの涙、オニキスの誓い  第九十章


「整列!」
 演習場にブラウンのよく通る声が響く。ザッと軍靴を鳴らして乱れなく整列する新兵たちを見回して、ブラウンが言った。
「全員揃ってるな。────よし。今日から新しく加わる仲間を紹介する。ハボック!」
 そう呼べば並んだ新兵の一番後ろからハボックが小走りに前へと走ってくる。居並ぶ新兵たちに向かい合う形で立てば、ブラウンが口を開いた。
「今日から訓練に加わるハボックだ。病気療養からの復帰でまだちょいと勘が戻らん部分もあるかもしれんが、すぐ慣れるだろう。仲良くやるように。────ハボック」
「よろしくお願いしますッ」
 ブラウンの声に答えてハボックがピッと敬礼すれば新兵たちが敬礼を返す。それにブラウンが頷くのを見て、ハボックは列の後ろへと戻った。
「では訓練を始める!」
 ブラウンの指示の元新兵たちがウォーミングアップのためのランニングを始める。ザッザッと足音を響かせて走る新兵たちの一番最後について、ハボックは訓練を再開したのだった。


「大佐、サインお願いします」
 書類を手に執務室に入ってきたブレダが言う。書類を受け取ってサインを認めるロイを見下ろしてブレダは尋ねた。
「ハボの奴、今日から復帰ですよね?」
「ああ、ブラウンのところにな」
「やっと戻ってきたばっかりなのに、いきなり訓練に参加なんて大丈夫なんですか?もう少し体調が戻ってからの方が良かったんじゃ……」
 友人の体を心配してそう言うブレダに書類を返しながらロイが答える。
「私も先にもう少し体調を整えてからの方がいいんじゃないかと言ったんだがな」
 そう言えば数日前のハボックとのやりとりがロイの脳裏に浮かんだ。


『すぐ訓練に参加するだと?無茶言うな』
『ブラウン中佐のところに戻ればいいと大佐も言ったじゃないっスか』
『言ったさ。だが、それはある程度体調が戻ってからの話だろう?今すぐの話じゃない』
 ハボックの意識がこちら側に戻ってきたのはつい昨日の話だ。ろくに食事もとれず車椅子で生活していた体は誰が見ても体調が万全とは言えず、すぐさま厳しい訓練に参加するなど到底無理と言わざるを得なかった。
『ハボック。無理をするな、先は長いんだ。焦らずゆっくり────』
『長いから』
 言いかけた言葉をハボックの声が遮る。思わず口を噤むロイを見つめてハボックは言った。
『長いからゆっくりなんてしてられないっス。オレは一刻も早く元の力を取り戻したい。でないと』
『ハボック』
 そう言うハボックの思い詰めた表情にロイは何も言えなくなってしまう。結局『無理はするな』とだけ言って、ハボックの好きにさせるしかなかった。


「無理するなって、今この時点で訓練に参加するのが既に無理してるってのに」
 ロイの話を聞いたブレダがガシガシと頭を掻いて言う。
「だが、言えるか?無理だからやめろと」
「────言えないですね」
 今のハボックにそんな事を言えるはずもない。
「見守ってやるしかないんですかね」
「そうだな……」
 そう答えるロイをブレダはじっと見つめる。何かしてやりたくて、だが何をしてやることも出来なくて、一番歯痒い思いをしているのはロイだろう。ブレダはそれ以上何も言えず、書類を手に執務室を出ていった。


「ハアッハアッハアッ」
 空気を取り込もうと大きく口を開いたものの上手く息が継げない。心臓が早鐘のように鳴り響いて、周りの音がよく聞こえないほどだった。
 休憩を告げるブラウンの声を聞くと同時にハボックはその場に倒れ込むように座り込んだ。自力で体を起こしているのもやっとで、それでも流石に地面にへばりつくような無様な格好だけは晒すまいとハボックは地面についた手でなんとか己の体を支えていた。
「くそ……」
 体が衰えていることは判っていたつもりだったが、想像以上にきつい。目を閉じ何とか呼吸を整えようとしていれば、頭上にさす影にハボックはゆっくりと目を開けた。
「しんどそうだな」
 そう言う男の顔はハボックから見ると影になってよく判らない。ハボックが地面についていた手を支えに立ち上がろうとすれば、男が手を伸ばしてハボックを引っ張り上げた。
「……ありがとう」
 ふらついてしまわないよう足を踏ん張ってハボックは言う。男はじろじろとハボックを見て言った。
「なあ、アンタ射撃大会で三位になったってホントか?」
「えっ?」
 いきなりそんな事を聞かれてハボックは言葉に詰まる。そうだと答えるべきなのか、違うと誤魔化すべきなのか、答えに悩んで黙ったまま見つめれば、男は困ったように目を逸らした。
「んな睨むなよ。気ィ悪くしたなら謝る」
「あ……いや、そんなつもりじゃ」
 別に睨んだつもりはなかったが、相手にはそう見えたらしい。真っ直ぐ相手に向けていた目を俯けるハボックに男が言った。
「俺はダグラス。よろしくな」
「あ、うん。こちらこそ」
 笑って差し出された手を、ハボックも笑って握り返す。ニッと笑って見つめてくるダグラスに何を言ったらいいのか判らずにいれば、訓練再開を告げるブラウンの声がしてハボックはホッと息をついた。
「また後でゆっくり話そうぜ。歓迎するよ」
 そう言って戻っていくダグラスの背を目を見開いて見つめたハボックは、キュッと唇を噛むと演習場の中へと戻っていった。


→ 第九十一章
第八十九章 ←