セレスタの涙、オニキスの誓い  第八十九章


「ご心配をおかけしました。ブラウン中佐」
 机を挟んで立つかつての部下がそう言って深々と頭を下げる。ブラウンは安堵のため息と共に立ち上がると手を伸ばしてハボックの両肩を掴んだ。
「よく帰ってきたな、ハボック。本当によく……」
「ブラウン中佐……」
 ハボックの身に起きたことをブラウンはロイの口から聞いていた。詳しい説明はされなかったが、それでも最高権力者によって成された非道は想像するに難くなく、自ら最後の地と決めたアエルゴから連れ戻されたハボックが心を病んでしまったと聞いた時、ブラウンは部下を守ってやれなかった己の非力を痛感させられたのだった。
「大丈夫だ。お前なら訓練すればまた前のような力を取り戻せる。すぐマスタング大佐の元に戻れるさ」
 両肩を掴む手にグッと力を込めてブラウンがそう言うと、ハボックは微かな笑みを浮かべて目を伏せる。そんなハボックを元気づけるようにブラウンはバンバンとハボックの肩を叩いた。
「今はお前たちの後に入ってきた連中が訓練に励んでいるところだ。そいつらと一緒に訓練して貰うことになる。お前の事は病気療養中だったということで話をしてあるから余計な詮索をしてくる者もおらんだろう」
「────。お気遣いありがとうございます、サー」
 ブラウンの言葉にハボックは一瞬目を見開き、それから頭を下げる。中途半端な時期、出戻りのような形で訓練に加わるハボックはどうしたって好奇の対象だろう。そんな好奇の目を少しでも逸らそうとしてくれるブラウンの心遣いに、ハボックは感謝せずにはいられなかった。
「訓練開始は三十分後だ。着替えて演習場に行ってくれ。そこで皆に紹介する」
「イエッサー」
 ハボックはブラウンに敬礼すると執務室を出ていく。その背を見送ったブラウンはドサリと椅子に腰を下ろし、ため息をついた。
「思った以上に筋肉が落ちているな……」
 この数ヶ月、実戦から離れていたどころかハボックは食事すらまともにとれていなかったと言う。見事に鍛えられていた体は見る影もなく衰えて、取り戻すには長い時間と想像を絶する努力が必要と思われた。
「いや、ハボックなら大丈夫だ。元々の才能もある上に努力家だ。きっとすぐに勘を取り戻すさ」
 新兵として東方司令部に配属されてからのハボックを一番見てきたのは自分だ。今度こそロイの元でその背中を守るためにハボックは努力を惜しまないだろう。そんなハボックの為に自分が出来ることは最適な訓練の場を与えてやることだけだ。
「頑張れ、ハボック。お前ならきっとやれる」
 ハボックを信じてブラウンはそう呟いた。


 ブラウンの執務室を出たハボックはゆっくりとした足取りで廊下を歩いていく。自分を気遣い励ましてくれるブラウンの言葉は嬉しく思うと同時に、自分が進む道の険しさを感じさせた。本来ならもっと体力を取り戻してから訓練に参加すべきなのだろう。だが、そうやって時間をかければかけるだけ己の中の不安がとてつもなく大きくなってしまいそうで、ハボックはすぐの訓練への参加を願い出、ブラウンもそれを了承した形になっていた。
(頑張んなきゃ)
 ハボックは不安に押し潰されそうな心を抱えながら自分に言い聞かせるように呟く。だが、その途端押さえ込もうとした不安が膨れ上がって、ハボックはギュッと目を瞑った。
「ハボック!」
 その時呼ぶ声が聞こえて、ハボックは閉じた目を開ける。声のした方を見ればグラントが手を振って駆け寄ってきた。
「グラント」
「ブラウン中佐からお前が戻ってくるって聞いて……本当に戻ってきたんだな、ハボック」
 グラントは本当に嬉しそうに言ってハボックの手を取る。ギュッと握ってくる手を握り返してハボックは言った。
「そっか。こっち残ったんだったっけ」
「ああ、ロモ中佐んとこにな。サイモンは南方司令部だ」
 笑って言うとグラントはかつて一緒に訓練に励んだ仲間をしげしげと見つめる。筋肉の落ちた体に僅かに眉を寄せたものの、すぐに笑みを浮かべて言った。
「また一緒にやれるな」
「まだ当分無理だよ」
「んなことないって」
 そう言って目を伏せるハボックにグラントが言う。金色の長い睫が顔に落とす影が醸し出すそこはかとない色気に一瞬ドキリとして、グラントはハボックの手を離した。
「今度一緒に飲みに行こうぜ。快気祝いだ」
「うん、ありがとう」
 にっこりと笑うハボックの肩を一つ叩いて、グラントは「じゃあな」と手をあげてその場を離れた。早足で廊下を歩き角まで来たところでチラリと振り返る。そうすれば長い廊下を歩いていくハボックの背中が見えて、グラントはひとつ息を吐いた。
「痩せたな、ハボックの奴」
 ロイに心酔していたハボックがいつか彼の片腕になれるよう並々ならぬ努力をしていたのはよく知っている。一緒に挑んだ射撃大会での素晴らしい技術は今でも記憶に鮮やかだ。何故ハボックがロイの元でなくアエルゴへ行くことにしたのかは判らなかったし、長いこと戦列を離れなければならないなにが彼の身に起こったのかも判らない。それでも。
「頑張れよ、ハボック。また一緒にやろうぜ」
 厳しい訓練を共に乗り越えた仲間の復帰を願って止まないグラントだった。


 ロッカールームの扉の前でハボックは立ち止まる。ほんの少し躊躇ってからノブに手を伸ばすと扉を開けた。中へ足を踏み入れれば着替えていた男たちが一斉にハボックを見る。その視線にギクリと身を強張らせたものの、ハボックはグッと手を握り締めて中へと入っていった。
(頑張ん、なきゃ)
 探るような好奇の視線の中、ハボックは自分にそう言い聞かせてロッカーの扉を開けた。


→ 第九十章
第八十八章 ←