セレスタの涙、オニキスの誓い  第八十八章


 イーストシティに向かう車のハンドルを握りながら、ロイは助手席に座るハボックをチラリと見る。座席に深く腰掛けロイに半身(はんみ)背を向けるように窓の方へ向いたハボックの顔は、伸びた金髪の影に隠れてよく見えなかった。
 渋るハボックを半ば強引に説き伏せて一緒にイーストシティに帰ることを承諾させた。ブラウンの元で鍛え直していずれは自分のところへ戻ってくる事を約束させたものの、ハボックは本当に自分の元へ帰ってくるのだろうか。
『いつかきっと大佐の役にたちたいんス』
 いつだってそれがハボックの口癖だった。ロイにしてみれば例え軍人として背中を護ってくれずとも、ただ側にいてくれたらそれだけで十分なのだ。ハボックを信じきれずにその手を離してしまって離れ離れでいた間の冷たく凍り付いた時間を思い返すに、ハボックがただ側にいてくれることの大切さをロイは身を持って知ったのだから。だが、それを言ったところでハボックが納得するとは流石にロイも思えなかった。
『今のオレ、何も出来ません。出来ることと言ったら』
 言いかけたハボックの言葉を乱暴に遮った。ハボックが心に負った傷は今なお血を流し続けている。一体どうしたらその傷を癒してやれるのだろう。
(愛してる、ハボック……愛してるんだ)
 ずっとずっと伝えたかった。伝え続ける事でハボックの傷を癒すことが出来るなら。
 手を伸ばして抱き締めたい気持ちを今は必死に押さえ込んで、ロイはハンドルをグッと握り締め頓にイーストシティへと車を走らせていった。


 窓の外を流れる景色をハボックはじっと見つめる。時折ロイの強い視線を感じたが、ハボックは振り返ることが出来なかった。
(こんなんなって……)
 ハボックは服を着ていてすら衰えたと判る己の体に唇を噛む。ゆうべ意識が戻った後、ロイとの話を終えて二階の寝室に上がろうとしたハボックはたかだか二階に上がるという行動にすら体が思うように動かない現実を目の当たりにして愕然とした。筋肉がすっかり落ちてしまった体はまるで子供のように頼りなく、ハボックを絶望させるには十分だった。
『ブラウンのところで鍛え直せばいい。そして私のところへ帰ってこい』
 そう言うロイに半ば強引に頷かされたものの正直全く自信がなかった。
(本当に鍛え直すなんてこと出来るんだろうか……大佐の役に立とうなんて、もう夢のまた夢なんじゃ……)
 本音を言えば怖くて仕方ない。訓練を再開してもしロイの元に戻れるだけの力を取り戻せなかったらどうしたらいいのだろう。それに。
『愛してる、ハボック』
 真っ直ぐに告げられるロイの気持ちが胸に痛い。自分で選んだ道とはいえブラッドレイによって刻まれた傷跡は、ロイの気持ちを素直に受け入れるにはあまりにも深いものだった。
(大佐……オレ……)
 ロイを好きであればあるほどその傷跡をロイに知られたくない。こんな自分がロイの側にいるためにはロイの役に立てるよう軍人としての技術を磨くしかないが、今の自分ではそれさえも危うい。
(怖い……)
 ただロイを護ることだけを考えていたあの頃。ブラッドレイに躯を差し出すのは辛かったが余計なことを考えずとも済んだ。今は考えたくなくとも様々に考えずにはいられず、そうすることでハボックは今までにない恐怖を感じていた。
『私のところへ帰ってくるんだ』
『来ると言え、ハボック。でなければ力付くでも一緒に連れていく』
(もし帰れなかったらどうなるんだろう……。軍人として役に立つことが出来ないと判ったら)
(その時は)
『お前などもう要らない』
 不意にそんなロイの声が頭に響いてハボックはゾクリと身を震わせる。一度はロイの側にいられないならせめてこの身をアメストリスの土くれにと思った事もあった。だが、離れた手を再び掴まれ引き寄せられれば、やはり側にいたいと望んでしまう。
(ずっと大佐の役に立ちたかったんだ)
(大佐の背中を護ることが)
(大佐が望むその場所に辿り着くのを見届けるのが)
(ずっとオレの)
(支えだったんだ)
 新兵としての厳しい訓練も、ブラッドレイを受け入れた辛い時間も、ロイを護りそして彼が目指すその先にロイが辿り着くその時をこの目で見たいと思い続けることで耐えてこられたのだ。
(怖い……力を取り戻せるかも判らない)
(でも)
(ただ大佐の背中を追い続けていたい)
(それ以外何も望まないから)
 ずっと抱いていた願いと弱りきった体を抱えた現実と、そして――身の内奥深くに刻まれた傷跡と。
 その狭間で押し潰されそうになる心を抱えてハボックは震える手を握り締めた。


「着いたぞ」
 ブレーキがかかる軽い振動とそれに続いて聞こえた声にハボックはハッとして目を開ける。考え込んでいるうちにいつの間にかウトウトしてしまったようで、そんなところにも己の体力の減退を感じてハボックは唇を噛んだ。
「立てるか?」
 心配そうな声に慌てて顔を上げたハボックは、そこがロイの自宅であることに気づいて目を瞠る。ドアを開け車を降りようとするロイに向かって言った。
「待ってください!オレのアパートに連れていってくれるんじゃなかったんスか?」
「馬鹿を言うな。そんな調子のお前をアパートに一人で置いておける筈ないだろう?」
 ロイはそう言うと一度車を降りぐるりと回って助手席側の扉を開ける。手を伸ばして抱き上げようとするロイの手を振り払ってハボックは言った。
「アパートに帰ります」
「ハボック」
「ここにはいたくありません!」
 激しい口調で言うハボックにロイは目を見開く。見開いた目を辛そうに歪めて言った。
「お前を一人には出来ん」
「大佐っ」
「言うことを聞けッ!」
 思わずそう怒鳴って、ロイはハッと息を飲む。大きく目を見開いて見つめてくる空色に、ロイは囁くように言った。
「頼む、ハボック。もう少し体調が戻ってくるまででいい。ここにいてくれ」
 そう言えばハボックは無言のままじっと見つめてくる。拒絶の言葉が紡がれるのを恐れて見つめ返せばやがておずおずと伸ばされる手にホッと息を吐いて、ロイはハボックの手を取るとその体を支えて家の中へと入っていった。


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