セレスタの涙、オニキスの誓い  第八十七章


 真っ直ぐに見つめてくる瞳をハボックはじっと見つめ返す。黒曜石の瞳はロイが抱いている想いを真摯に伝えていて、その言葉が真実であることをハボックに教えていた。
「大佐……」
 あの時、自分を死の淵から引き戻したのは自分を赦さなかったわけでも拒んだわけでもなく、愛していたから失いたくなかったのだと言う。もし、それが本当なら自分はロイの側にいてもいいのだろうか。そう考えてからハボックは緩く首を振った。
 ロイを守りたくて他に方法を思いつかなくて、ブラッドレイに要求されるまま躯を差し出した。ロイのために良かれと思ってやったことは己だけでなくロイをも深く傷つけていたのかもしれない。傷つけて、ロイを憎しみに走らせた。そう思えばやはり赦されないのは当然であり、そのことでロイを責めることもロイを受け入れることも出来ないのではないだろうか。
「ハボック」
 ロイのものとは思えないどこか不安の滲む声に、ハボックはいつの間にか俯けていた視線を上げる。変わらず真っ直ぐ見つめてくる瞳を見つめ返して、ハボックは口を開いた。
「よく……判んないっス」
「ハボック」
 ロイの言葉に嘘はないと思う。だが、自分の記憶がある時からの状況の変化に正直気持ちがついていかなかった。
「オレは……オレもアンタが好きです。最初からずっと……アンタが決してオレを赦してはくれないんだと思っても、側にいられないと思っても、アンタを好きでいるのをやめられなかった。これまでもこれからも大佐が好きっス……」
 そう告げればロイが泣き出すとも笑い出すともつかない表情を浮かべる。優しく頬に触れる手にハボックは目を閉じて、それから目を開いて言った。
「でも……大佐の気持ち、受け入れられないっス」
 ハボックの言葉にロイが目を見開く。
「正直、どうしたらいいのか判んないんです。オレがアエルゴにいた時からもう随分と経ったのは判ったけど、じゃあ今オレはなにしてんの?こんな……弱った体で……銃だってきっとまともに撃てない。大佐の気持ち聞いても、どうしたらいいのか判んないんです。だってオレ、こんなになってて……オレは大佐のこと護りたいのにっ、それだけをずっと思って、オレは……ッ」
「ハボック」
 ガタガタと震えて己の体を掻き抱くハボックにロイは手を伸ばした。一瞬躊躇ってそれからそっとハボックを抱き締める。今度は振り払わず大人しく抱き締められているハボックにロイは抱き締める腕に力を込めた。
「私の気持ちは迷惑か?」
「ッ、そうじゃないっ、そうじゃなくて……っ」
 耳元に囁く声にハボックはふるふると首を振る。抱き締める腕にしがみついてくるハボックにロイは囁いた。
「愛してる、ハボック」
 そう告げればハボックが目を見開いてロイを見る。その瞳に涙が盛り上がり、ポロリと零れて落ちた。
「う……ふ……」
 ロイは零れた涙を唇で拭って震えるハボックの体を抱き締める。無言のまま抱き締めていれば、暫くしてハボックが小さな声でロイを呼んだ。
「……帰ってください、イーストシティに」
「ハボック」
 思いもしない言葉にロイは驚いてハボックを見る。そうすればハボックはロイを見ずに言った。
「どれくらいここにいたのか判んないっスけど、大佐は帰った方がいいっス」
「お前は?お前はどうするつもりだ?」
「オレは……」
 まさかまた自分の前から消えてしまうつもりなのかと不安に駆られてロイは尋ねる。ハボックの腕を力任せに掴んで言った。
「私がここから帰るときはお前も一緒だ」
 きっぱりとそう告げればハボックが激しく首を振る。
「一緒には帰らないっス」
「ハボック!」
「だってっ!」
 きつく呼ぶロイにハボックが声を張り上げた。
「だって、一緒に帰ってどうしろって言うんスかっ?今のオレ、なんにも出来ませんッ!出来ることと言ったらそれこそ……大総統にしてたような────」
「やめろッ!!」
 言いかけたハボックの言葉をロイは大声で遮る。その声の激しさにビクリと震えたハボックの大きく見開かれた空色の瞳に浮かぶ表情に、ロイはハッとして言った。
「すまん……。だが、そんなことを言うな。お前が何も出来ないなんて、そんなことはないんだから」
 言って宥めるように腕を撫でてくるロイをハボックはじっと見つめる。それから視線を逸らして言った。
「でも、オレ……今は、大佐と帰るなんて……考えられないっス……」
 小さく身を縮めてそう囁くように言うハボックをロイは見つめる。少し考えて、それから口を開いた。
「だったらブラウンのところへ行け。そこでもう一度鍛え直せばいい。そして必ず私のところへ帰ってこい」
 そう言ってロイはハボックを見る。
「私のところへ帰ってくるんだ、いいな?」
「大佐」
「来ると言え、ハボック。でなければ力付くでも一緒に連れていく」
 ロイは言って両手でハボックの腕を掴み正面から見据えた。目を逸らす事を赦さないロイの視線の鋭さに、ハボックは目を大きく見開く。クシャリと顔を歪めて、小さく頷いた。
「……はい」
「ハボック」
 その答えにロイはホッとした表情を浮かべてハボックを抱き締める。ロイの肩口に頬を寄せてハボックはそっと目を閉じた。
(大佐のところに、帰れるのかな……)
 すっかりと弱ってしまった体を、衰えてしまったであろう技術を取り戻すのにどれだけかかるかも判らない。例え取り戻したところで、ロイの元に戻っていけるのだろうか。
「愛してる、ハボック」
 耳元に囁かれる声は深い意識の奥底でずっと聞いていた声だ。ロイの声がハボックをこの世界に引き戻した。誰よりも愛しいロイの声が。
(大佐が好き。────でも)
 ロイの腕に抱かれながらハボックは衰えてしまった己の体を見る。そして、身の内に刻まれたブラッドレイの影を。
(帰りたい、大佐の側に。ずっと一緒にいたい)
(でも)
(でも、オレは)
「たいさ」
 ロイへの想いと沸き上がる不安とに震えながら、ハボックはロイの背に腕を回してギュッとしがみついた。


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