セレスタの涙、オニキスの誓い  第八十六章


「ハボック!」
 意識を失って倒れ込んできた体をロイは慌てて抱き止める。ぐったりとしたその様を見れば、俄に沸き上がる恐怖にロイはハボックを抱き上げて走り出した。
 満天の星空を時折震えるように星が流れる。その空の下、ロイはハボックを抱き抱えて(ひたすら)に駆けた。そうすれば、あの日ようやっとの事見つけだしたハボックを腕に抱いて、アエルゴの戦場を必死に駆けた事が思い出された。
「ハボック……ハボック……っ」
 丘の裾を回りロイは別荘へと走っていく。抱き締めた温もりが消えてしまう恐怖に追い立てられて走れば、酷く耳障りな己の荒い息遣いが余計にその恐怖を煽った。陽の光の中では明るく紅葉を輝かせていた木立が、夜の闇の中では血塗れの腕を伸ばしているように見える。そんな木立の向こう、別荘の影が見えてロイはホッと息を吐いた。
 ハボックを腕に、ロイはポケットから取り出した鍵で別荘の扉を開け中に入る。リビングに駆け込みハボックの体をソファーに下ろした。灯りを点けグラスに水を注いで戻ってくるとソファーの側に跪く。ぐったりと横たわるハボックの上半身を抱え起こし、額にかかる金髪を掻き上げた。
「ハボック」
 閉ざされた瞼の向こうに隠れてしまった空色を求めて、ロイはハボックを呼ぶ。このまま二度と目を覚まさないのではないかという恐怖にロイが大声で叫び出しそうになった時、ハボックの金色の睫が震えた。ハッとしてロイが見つめる視線の先、ハボックがゆっくりと目を開ける。その瞳が再びガラスの向こうに閉ざされてしまったかもというロイの危惧に反して、ハボックはゆっくりと視線を上げるとロイを見た。
「……大佐」
「ハボック、──水だ」
 ホッと息を吐いてロイは水の入ったグラスをハボックの口元に当ててやる。薄く開いた唇の間から水を流し込んでやれば、ハボックがコクリと喉を鳴らして水を飲んだ。
「大丈夫か?」
 そう尋ねてロイはハボックをじっと見つめる。ハボックはロイの腕に預けていた体を起こして部屋の中を見回した。
「ここは……?」
「私の別荘だ。……ハボック」
「どうして……どうしてオレはここに?」
 深い意識の奥底での眠りから漸く覚めて、すぐには状況を飲み込めないのだろう。ロイはどこか不安げなハボックの横顔を見つめて言った。
「アエルゴから連れ戻したお前は心を閉ざしてしまっていた。病院での治療ではもう限界で……だからここへ連れてきた」
「……何の、ために?」
「なんのって……っ」
 そんな事いちいち説明する必要もないのではないだろうか。
「決まってるだろう、勿論お前を取り戻す為だ。お前の心を取り戻すために私は────」
「アンタは」
 あまりに判りきった事を尋ねられ、ムッと眉を寄せるロイは遮るハボックの声に口を噤む。キュッと口を引き結んで見つめればハボックが言った。
「オレを赦す気はないんでしょう?だったら何故?オレの心なんてもうアンタには必要のないものでしょう?」
「なにを言ってるんだ、お前は」
 自分にとって何よりも必要なのはハボック自身でありハボックの心だ。ハボックがロイを赦せないと言うのならともかく、自分がハボックを赦さないなどとあり得ないと思いながら見つめれば、ハボックが言った。
「あの時……オレはやっと死ねると思った。もう、アンタの側で役に立つことは出来ないけど、それでもこれでやっといつかアンタが治めるこの国の、一粒の砂になれるんだって……でも、アンタはそれすら赦してくれなかった。それほどアンタはオレを憎んで、赦す気はないんでしょう?だったらもう……放っておいてくださいッ」
「ハボック、お前……」
 言葉を重ねるうちだんだんと感情が高まって、最後は吐き捨てるように言って見つめてくる空色がたたえる深い哀しみの色に、ロイは漸く気付く。己の言葉が、態度が、行為が、どれほど深くハボックを傷つけていたのか、ハボックを取り戻して抱き締めて、愛しているのだと告げれば全て解決すると思っていた己の浅はかさに改めて気づかされて、ロイは唇を噛んだ。
「それは違う、違うんだ、ハボック。死ぬのを赦さなかったんじゃない、死なせたくなかったんだ。お前を失いたくなかったんだ」
 ロイは噛み締めた唇を開いてゆっくりと言葉を吐き出す。今また間違ってしまえば、自分は二度とハボックをこの腕に抱き締める事は出来なくなってしまうかもしれないと、沸き上がった不安と恐怖に怯えながら、それでもロイは意を決して口を開いた。
「ブラッドレイがお前を抱いたと聞いた時、私の心は憎しみに支配されてしまった。お前を抱いたブラッドレイへの、お前を護れなかった私自身への、お前をセントラルへ行かせた運命への────この世の全てが憎かった。何もかもが憎くて赦せなかった。憎くて苦しくて、そして私は卑怯にも逃げたんだ。お前を愛することから逃げた、逃げたところでお前への気持ちが消えることなどありはしないのにな」
 ロイは言葉を切ってハボックをまっすぐに見つめる。
「逃げて、一番楽な方法をとった。お前を傷つける事でお前への気持ちを憎しみで覆い隠して誤魔化そうとした。その挙げ句お前をアエルゴに追いやってしまった。本当は誰よりも何よりもお前を愛していたくせに」
 そう言えばハボックの瞳が切なく揺れて、ロイはその目元に手を伸ばした。
「お前を失いかけて、私は漸く自分がどうすべきだったのかに気付いた。私がすべきは逃げることでも憎むことでも拒むことでもない、ただ素直に愛することだった。だが、そう気付いた時にはお前の心は深い深い場所に閉ざされてしまっていた。お前が心を閉ざしてしまってこの気持ちを伝える術が出来なくなったことが何よりも辛かった。例え拒まれ疎まれようと、私がお前を愛している事を、気が狂うほどに全てを憎まずにはいられないほどに、お前を愛していると伝えることが出来なくなった事を、どれほど後悔したか……。二度とお前は私を赦してはくれないのかもしれない。もう────私を愛してなどいないのかもしれない。それでも、私は」
 触れた目元を指先で撫で、白い頬を手のひらで触れて。
「お前を愛してる。愛してるんだ、ハボック」
 ずっと伝えられずにきた言葉を、ロイは漸く口にした。


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