セレスタの涙、オニキスの誓い  第八十四章


 空から幾つもいくつも滴が落ちてくる。その滴にしっとりと全身を濡らして、彼は湖の中央に立ち尽くしていた。滴は彼に当たるたび優しい響きを残し、彼を暖かく包み込む。その時、一際明るい光を纏う滴が落ちてきたと思うと、彼の前髪に当たって弾けた。彼の目の前で散った滴の中から一瞬綺麗な焔が迸り、溶けるように宙に消える。それを見た彼の唇が僅かに震え、そして。
「    」
 聞き取れないほどの微かな囁きが空気を揺らした。


「いつもすまないな、ジョーンズ。車で買いに出ればいいんだが……」
「いえいえ、全然構いませんよ。気になさらんで下さい」
 どうせ時間は有り余ってますから、とジョーンズはすまなそうな顔をするロイに向かって笑いかける。野菜が入った籠や水のボトルをパントリーに運び込み、牛乳や肉を冷蔵庫にしまってジョーンズが言った。
「そう言えばこの間ラジオで言ってましたが、おうし座流星群とかいうのが見えるらしいですよ」
「おうし座流星群?」
 鸚鵡返しに聞き返すロイにジョーンズが頷く。食材を持ってくるのに使った袋を畳みながら言った。
「流星群としてはあまり規模の大きいものじゃないらしいんですが、目玉なのは火球がよく見えるんだそうです」
「へぇ、そうなのか」
「ハボックさんと見に出られてはいかがですか?寒いでしょうからしっかり着込まないとですが」
「そうだな……考えてみるよ」
 気のいい男の言葉にロイは曖昧に頷く。それじゃあまた来ます、と帰っていくジョーンズを見送ったロイは、リビングに戻ってくるとソファーに腰掛けるハボックに歩み寄りその横に腰を下ろした。
「ハボック、流星群だってさ」
 ロイは言ってハボックの顔をチラリと見る。反応を見せるでもないハボックに、ロイは小さくため息をついて膝の上に組んだ己の手を見た。
「流れ星、か……」
 夜空に流れる星を思い浮かべればそれと共に思い出される記憶に、ロイは顔を歪めた。
『大佐の力になれますように……。訓練終えて力つけて、大佐の為に大佐の役に立てますようにって』
 たった一度交わしたキスの後、二人で見上げた夜空を流れた星にそう願いたいと言ったハボック。それに答えてロイは己の願いを口にした。
『ずっとお前といられるように。なにがあっても私から離れるな、どこまでも私についてこい』
 そう言っておきながらロイは自分からハボックの手を離してしまった。ハボックは言葉を(たが)えず己の身を投げ出すまでしたと言うのに。
「星を見るのは辛いな……。──もし」
 あの時ちゃんと星に願っていれば今頃ハボックと二人笑って目指す道を突き進んで行けたのだろうか。
「違うな、星に願いをかけなかったからじゃない。私の愚かさが今のこの事態を招いたんだ。お前はいつだって私に対して誠実で正直だった」
 ロイは言ってハボックの髪を撫でる。
「どうしてお前を信じなかったんだろう。お前でなくブラッドレイを信じるなど、愚かにも程がある。こんなにお前を愛しているのにその気持ちから目を背けて、なんと愚かしい……っ」
 髪を撫でる手にグッと力を込めてロイはハボックを引き寄せた。
「愛してる、ハボック……。お前が好きで堪らないよ……」
 愛しくて堪らず、好き過ぎて苦しい。苦しいのが幸せであると同時に、この気持ちを伝える術がないことが堪らなく辛い。それでも愛する事をやめることもこの気持ちから逃げることも出来る筈はなく――――。
 もう数えることも出来ないほど告げてきた言葉を囁いて、ロイはハボックに口づけた。


「雨が降ってから一層季節が進んだな」
 ロイは青く晴れた空の下車椅子を押しながら言う。先日の雨を境に朝晩はかなり冷え込むようになり、日中陽射しが出ていてもあまり気温が上がらなくなっていた。
「寒くないか?ハボック」
 足を止めてロイは、宙を見つめるハボックの顔を覗き込んで尋ねる。特に変わりがないのを問いに対する返事ととって、ロイは再び車椅子を押して歩きだした。
「今日はどこへ行こうか。ススキの野っぱらがいいか?それとも紅く染まった楓がいいか?」
 そう言ってロイは空を見上げる。薄く雲が棚引く空を見上げて言った。
「そうか、今日は青空をバックに紅葉が見たいか」
 それじゃあこっちだな、とロイは丁度差し掛かった別れ道を曲がる。暫く行けば最近の冷え込みに見事なまでに真っ赤に染まった木立が見えて、ロイはゆっくりと車椅子を進めていった。
「ここにしよう」
 ロイは梢の間から空が見える場所を選んで車椅子を停める。ハボックが景色を楽しめるよう向きを選んで車止めをかけ、自分はその足下にシートを引いて座り込んだ。
「風がないから思ったより寒くないな……とはいえ、防寒はしっかりしないとだが」
 ロイは手を伸ばしてハボックの膝にかけた膝掛けの具合を確かめる。ちゃんと寒くないようハボックを包み込んでいるのを確認して、ロイは持ってきた本を広げた。
「もっと寒くなったらどうしようか、ハボック。外で過ごすのも無理になるかな」
 寒くなる前にイーストシティに帰れるかと抱いていた淡い期待も、空気の冷たさの前に小さく萎んでしまいそうだ。ロイは小さく息を吐くと開いた本に目を落とした。


 いつものように時折話をしながらゆっくりと時を過ごす。分厚い専門書を読んでいたロイは、疲れてきた目を閉じて目頭を指で揉み込んだ。
「ふぅ……」
 息を吐き出し傍らのハボックを見上げる。暫くハボックの横顔を見つめていたが、ロイはふと思い立って立ち上がると車椅子に座るハボックを抱き上げその体を自分が座っていたシートに下ろした。
「偶には並んで景色を見るのもいいだろう?」
 ロイはそう言ってハボックの肩を抱き寄せる。寄り添う温もりに笑みを浮かべて、ロイは秋色に染まる景色を眺めた。


 並んで座る二人を見下ろして太陽がゆっくりと動いていく。やがて西の空までその身を移すと太陽は、微睡むロイとそのロイの重みを肩で支えてぼんやりと宙を見つめるハボックをオレンジ色に染めて地平線へと沈んでいった。太陽が一日の旅を終えて夜の向こうへ帰っていけば、空には一面に星が輝き出す。朔の月は夜空に溶けて姿を見せず、星はこの時とばかりに輝きを増した。その中の一つが地上の重力に引かれるようにスッと夜空を(よぎ)って消える。数分おいてまた一つ、更に数分後にもう一つ星が震えるようにして流れた。そして。
 月のない空の上、一際明るい星がその身を二人の上に投げ出す。白く燃える星がゆっくりと夜空を流れていく、それに向かってハボックが手を差し伸べた。


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