セレスタの涙、オニキスの誓い  第八十二章


 そうして穏やかに日々は過ぎていく。静かな田舎暮らしがハボックの体と心に一番の良薬かとここでの暮らしを選んだが、ハボックの様子はここへ来た当初とさほど変わったようには見えなかった。それでもロイは甲斐甲斐しくハボックの世話をやいては話しかける。例え応(いら)えがなかろうとハボックを見れば口を開かずにはいられず、ロイは思いつくままハボックに話をした。そして。
「愛してるよ、ハボック」
 話の合間合間にロイはハボックに愛を囁く。それはずっと前から変わらずロイの中にあった想いだったが、これまでは憎しみと怒りと嫉妬に蓋をされ、外に出ることを赦されなかった。だが、今その醜い蓋は溶かされ、押さえ込むものがなくなった想いは次から次へと溢れ出て、ロイは溢れる想いのままに好きだと繰り返した。
「ハボック、好きだよ……苦しいな、苦しいけど幸せなんだ。もっと……もっと早くにこの苦しみを知っておけばよかった」
 苦しいまでに愛しいと想う気持ち──もっと早くこの気持ちを素直にハボックに告げておけばよかった。ロイは後悔を苦く噛み締めながら、ハボックに何度も好きだと囁き続けた。


「ハボック、ほら、新しい花だ」
 あの日コスモスを摘んでから何度目かの花をロイは摘んで水を入れたカプセルに挿してやる。ピンクのコスモスを摘んでやれば、いつものようにどこか柔らかい表情を浮かべたように見えるハボックの髪をかき上げて、ロイは額にキスを落とすと車椅子を押して歩きだした。
「今日はもう少し先まで行ってみよう」
 別荘に来てからもう何度も訪れたコスモス畑を歩きながらロイは言う。ゆらゆらと風に揺れる色とりどりのコスモスの間を抜けて先へと進んで丘の頂上を越えると、眼下にススキの穂がその頭を垂れているのが見えた。
「凄いな、金色の波みたいだ」
 ススキの穂が一斉に風に靡く様は、まるで金色の波が押し寄せてくるようだ。ロイはゆっくりと丘を下り、車椅子をススキの波の中へと乗り入れた。
「思い出した。子供の頃、ススキの穂を集めて魔法使いの箒を作ったんだ。あの頃丁度魔法使いの学校に通う男の子の物語を読んでいてな。自分もその学校に行きたくて、どこあるのかと随分探したんだ」
 魔法使いが本当にいると信じていた、幼い頃の自分を思い出してロイはクスリと笑う。近くで揺れるススキの穂を数本折り取って束にしてハボックに見せた。
「家には魔法使いが使うような箒がなくてね。ススキの穂で箒を作って跨って遊んだ。自分で考えた呪文を唱えて、もしかしたらフワリと浮くかもしれないなんてな。────なんだ?私にもそんな可愛い時があったのかと言いたそうだな。私だって昔はもっと素直で可愛かったんだ」
 ロイはそう言ってニヤリと笑う。ハボックが『えーっ、そんな大佐、想像つかないっス!』と大袈裟に驚く様が浮かんだが、実際にはそんなことはなくハボックはピンクのコスモスを握って静かに車椅子に腰掛けたままだった。
 ロイは秋風に揺れるススキの中、ハボックの顔をじっと見つめる。その頬に手を伸ばし、そっと撫でながら言った。
「なあ、もし私が魔法使いだったら、お前の心を今すぐここに連れ戻せるんだろうか……呪文を唱えてステッキを振って……。チチンプイプイ、ハボックよ、今すぐここへ戻ってこい!」
 ロイはそう言って手にしたススキの穂を一振りしてハボックの頭の上に翳す。ほんの一瞬後、ロイはクッと笑ってため息をついた。
「残念だが有り得ないな。私は魔法使いではなく科学者だ。そんな都合のいい魔法がないのは一番よく知っている」
 ロイは言って手にしたススキを投げ捨てる。ハボックの頭を胸に抱え込み、その金髪に顔を埋めた。
「好きだよ、ハボック……魔法なんてないのは知ってる。ただこの気持ちをお前に届けることが出来たらいいのに……」
 溢れる気持ちを告げてつげて、どれだけハボックが愛しくて好きで堪らないか伝えることが出来たらいいのに。告げずにここまで来てしまった後悔にため息を漏らして。
「愛してる……愛してるよ、ハボック」
 ロイはもう二度と押さえることなど出来ない想いを唇にのせてハボックに口づけた。


 晴れ渡った空から幾つも幾つも滴が落ちてくる。鏡の湖の真ん中に佇む彼の、髪に頬に肩に、滴は当たっては弾けて彼の周りの空気を暖かく染め、柔らかな響きを残した。
 ────…イシテル。
 ────アイ…テル。
 ──アイシテル。
 アイシテル。
 吹き荒れる暴風雨にもまるでベールを被ったかのように一切濡れる事のなかった彼を、降り注ぐ滴はしっとりと濡らしていく。数え切れないほど降り注いでくる滴の下、濡れた金髪が頬に張り付き無表情な彼の顔を幼く見せた。そんな彼を守るかのように、弾けた滴の中から広がる暖かなものが彼を優しく包み込む。少しずつすこしずつ彼の周りを柔らかな空気が満たし、時折悪戯な風が彼の髪を擽るように揺らした。その風が優しく滴に濡れた彼の頬を撫で、空色の瞳を飾る金色の睫が微かに震えた。


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