セレスタの涙、オニキスの誓い  第八十章


 青い空を映し出すガラスの面をたたえた湖の中央、彼は一人佇んでいる。本当の己をその奥深くに隠して無表情に佇む彼の遙か頭上、青い空が微かに揺らいだと思うと小さな水滴が一粒ポトリと降ってきた。その水滴は真っ直ぐ彼に向かって落ちていくとその白い頬にピチャンと当たって弾けた。
 ────イシテル。
 弾けた水滴から微かな、だがとても暖かいなにかがフワリと辺りに広がっていく。その何かは彼の周りの空気を僅かばかり暖かく染めて、そうして霧散して消えていった。


「ハボック、それも一緒に飾ろうか?」
 摘んできたコスモスを水を入れたグラスに活けてロイが言う。ハボックの手からコスモスを抜き取ろうとしたが、キュッと握った手から花は抜けなくてロイは苦笑してハボックの手を軽く叩いた。
「気に入ったのか?仕方ないな」
 無理に手のひらを開かせて取り出すこともない。ロイはハボックの好きにさせることにして花を飾ったグラスを窓辺に飾る。そうしてポンポンと金色の頭を軽く叩くと、キッチンへ行って夕べの残りのシチューを温め直そうと鍋に火を点けた。


 結局風呂に入る時になってもハボックはコスモスを握って離さなかった。子供が気に入りの玩具を手放そうとしないのに似たその様に、ロイはコップを一つ犠牲にして小さなカプセルを錬成してやる。中に少量の水を入れたそれにコスモスの茎を挿して少しでも日持ちするようにしてやれば、ほんの少しハボックが微笑んだような気がしてロイは笑みを浮かべた。
「気のせいだろうな。それでも────勝手に喜んでくれてると思うことにするよ、ハボック」
 ロイは言ってハボックの頬を撫でる。一日風に当たって疲れたのか早々にうとうとし始めるハボックにクスリと笑って、ロイはハボックを寝室に運んだ。
「明日は団栗を拾いに行こう。綺麗な紅葉も落ちてるかもしれないな。楽しみだろう、ハボック?」
 ロイは抱き締めたハボックの金髪に唇を寄せて囁く。スウスウと返る優しい寝息が答えているように思えて、ロイは目を細めた。
「愛してるよ、ハボック……」
 愛しそうに繰り返して、ロイは眠りの漣に身を委ねる。そうすれば暖かい温もりと共に訪れた眠りの中にロイは愛しい姿を見つけた。
『大佐』
 夢の中でハボックは笑ってロイにピンクのコスモスを差し出す。
『大佐……』
 間近に見つめてくる空色をロイはコスモスごと優しく抱き締めた。
『愛してる、ハボック』
 そう囁いて抱く腕に力を込めれば、腕の中のハボックはコスモスのピンク色に溶けるように消えてしまった。
「────ああ」
 喪失感に胸を締め付けられて、ロイは閉じていた目を開ける。そして腕の中の温もりを確かめて安堵のため息を漏らし、再び眠りの淵に落ちていった。


「おはよう、ハボック。よく眠れたか?」
 ロイは熱いタオルでハボックの顔を拭いてやりながら尋ねる。その瞳がロイではなく握ったコスモスの花に向いているのを見れば、嬉しいような寂しいような複雑な気持ちになった。
「よかった、まだ綺麗だな」
 それでもロイはそう言うと簡単に食事を済ませハボックを車椅子に乗せて外へ出た。今日は丘を登らず丘のふもとに沿って道を歩いていく。途中向こうから荷馬車が来るのが見えて、ロイは車椅子を道の脇に寄せて荷馬車が行き過ぎるのを待った。だが、ロイの考えに反して、荷馬車は二人のすぐ横でスピードを落としてゆっくりと止まる。御者台にいた男が二人を見下ろして声をかけてきた。
「こんにちは」
「こんにちは」
 ロイは男を見上げて答える。男はロイを見、ハボックを見て言った。
「こんな田舎には不釣り合いな男前な兄さんたちだね。どこから来たんだい?」
「イーストシティだ。今はすぐそこの別荘にいる」
「ほお」
 男は頷いてロイが来た先を見遣る。すぐ側に止まった荷台から仄かに漂ってくる香りにロイは言った。
「ブドウの匂いがする。いい香りだ、旨そうだな」
「今年は旨いブドウがたくさん採れてね」
 男はロイの言葉に嬉しそうに言う。ふと思い立ったように続けた。
「そうだ、別荘の入口に置いとくから食べてみてくれ」
「え?いや、そういうつもりでは」
 強請ったつもりはなかったが、そう言われてロイは目を丸くする。断ろうとすると男は笑って言った。
「とっても旨いんだ。是非そっちの兄さんと食べてくれよ」
「じゃあせめて代金を払うよ」
「いらんいらん。きっと食べてくれよ」
 じゃあ、と男は馬に鞭を入れて言ってしまう。ロイはため息混じりに馬車を見送ると再びゆっくりと車椅子を押して歩きだした。
「まあ、社交辞令かもしれんしな」
 この辺りに別荘と言えばロイの別荘が一番近いのは確かだが、男にそれが判るとも限らない。ロイは消えていくブドウの香りと共に男の事は忘れて道を進んでいった。
「ほら、ハボック、クヌギの木だ。子供の頃よく実を集めたものだよ」
 ロイは言って足下に落ちている丸い実を拾う。帽子のような殻斗をつけた実を選んでハボックの膝の上に置いた。
「この帽子をつけたのが特別でな。ついてると思って拾い上げるとすぐ取れてしまったりして、ちゃんとついてるのを必死に探したっけな」
 そう言いながらロイはハボックの顔を見る。そうすれば同じ会話をかつて交わしていた事を思い出した。
「この話はしたことがあったんだったな。お前が覚えていたら、同じ話を繰り返すなんて年寄り臭いと笑うかな」
 ロイは団栗の実を指先で弄んでくるりと回した。
「お前は団栗で独楽を作った話をしてくれた。今度作り方を教えてくれると言っただろう?覚えてるか?────いつか、元気になったら教えてくれるか?」
 そう尋ねてもハボックからの答えはない。それでも。
「いつかきっと、教えてくれ。ハボック」
 ロイはそう囁いて団栗を乗せたハボックの手のひらをギュッと握り締めた。


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