セレスタの涙、オニキスの誓い  第七十九章


 青く果てなく広がる空の下、ガラスの水面をたたえた湖の中央、彼は一人佇んでいる。今彼はかつて彼が外の世界でしていたように、最も忌むべき存在に己の器を明け渡すことでたった一つ大切な物を吹き荒れた嵐から守って、そうして本当の彼はその器の一番奥底へと逃れてしまっていた。本当の己が粉々に砕け散ってしまわぬよう、深く深く逃れた彼を守る器が湖の中央に静かに佇み、そうしてただ一人彼を奥深いそこから救い出せる人の手を静かに待っているのだった。


「今日は疲れたろう?もう寝た方がいい」
 結局無理矢理唇の隙間から流し込むように飲ませた僅かばかりのシチューで夕食を終えたハボックを、ロイは母親が赤ん坊にしてやるように風呂に入れてやると、濡れた金髪を乾かしながらそう話しかける。温風にふわふわと靡く金髪はやけに無防備で、ロイはふと不安になって髪を乾かす手を止めた。
「ハボック」
 顔を覗き込めばいつの間にかその瞼は閉じて、綺麗な空色は瞼の向こうに隠れてしまっている。くったりとソファーに寄りかかる体を抱き上げて、ロイはハボックを寝室に連れていった。
 二階の寝室に設えられたダブルベッドにハボックの体を下ろすと、ロイはその横に潜り込む。まだ少し湿り気の残る金髪を腕に抱き込めば感じる温もりに、ロイはホッと息を吐いた。
「愛してるよ、ハボック」
 愛しくて愛しくて堪らない。どうしてもっと早くこの気持ちをハボックに伝えておかなかったのだろうと、ロイは思わずにはいられない。疑うより怒るより憎むより、信じて愛するべきだったのだ。
「愛してる……愛してるんだ」
 告げずに来てしまった想いを届けようとするように、ロイは抱き締めた金髪に唇を寄せて、何度も囁きながらゆっくりと眠りに落ちていった。


 翌朝は目覚めると綺麗な青空が広がっていた。ロイは身支度を整えるとハボックを起こして熱いタオルで顔を拭いてやった。
「おはよう、目が覚めたか?」
 そう言って笑いかけたがハボックは相変わらずぼんやりとしたままだ。ロイはハボックを抱き上げて階下に下りると、パンとミルクだけで簡単に朝食を済ませた。
「今日は外へ出かけてみよう。昨日道すがら見た感じだと、そう昔と変わってないようだ」
 幼い頃遊んだ事を思い出して、ロイはハボックをジョーンズが用意しておいてくれた車椅子に乗せ別荘の外へ出ていく。陽射しはまだ強かったが風は乾いて心地よく、ロイは車椅子を押して別荘の裏手から続く坂道をゆっくりと上っていった。
「確かこっちに毎年コスモスが……、─────ああ、あった」
 低い木立を抜けると、小高い丘の上に優しい色が群れているのが目に入る。ロイはその色目指して車椅子を押していった。
「ごらん、ハボック。コスモスが咲いてる」
 暫く上っていくと、道沿いにピンクや白、濃赤の色とりどりのコスモスが花を付けている辺りにやってくる。その花を見れば、まだハボックが学生だった頃一緒に出かけた公園を思い出してロイは笑みを浮かべた。
「覚えているか?ハボック。あの時も色とりどりのコスモスが咲いてたな」
 ロイはそう言って手を伸ばすと花を一輪折り取る。ハボックの膝の上に淡いピンク色のそれをそっと置いた。
『色んな色があるけど、オレはピンクが一番好きっス』
 色とりどりのコスモスが咲き乱れる中、ハボックはそう言って笑っていた。
『ピンクか?意外と少女趣味だな』
『えーっ、だってピンクが一番秋の空に似合うっしょ?』
 少女趣味だとからかえば、口をとがらせてピンクの花を己の瞳と同じ色の空に翳していた。そんな些細な光景を思い出して、ロイはコスモスを握らせたハボックの手を取り、ピンクの花をその瞳の前に翳した。
「確かに、空の色に一番似合うな」
 コスモスの花を映す瞳を覗き込んでロイは言う。愛しそうにその目元にキスを落とすと、ロイは再び車椅子を押して歩きだした。


 その日はそうやって一日中コスモスを眺めて過ごした。時に車椅子を押して秋風の中をコスモスを摘んで歩き、時に木陰に止めた車椅子の足下に座り込んで本を広げ、その合間にロイはポツリポツリとハボックに話しかける。ハボックから相変わらず(いら)えはなく、ロイの言葉は秋の空に溶けて消えていった。
 日が傾き辺りがオレンジに染まり始めると、急に風が冷たくなってくる。ロイは広げていた本を閉じると立ち上がり、ハボックの顔を覗き込んだ。
「そろそろ戻ろうか。風が冷たくなってきた」
 寒くないか?とロイはハボックの金髪をかき上げる。ハボックの膝の上にはこの日摘んだコスモスが、十輪ほども乗っていた。ロイは車椅子を押してゆっくりと丘を下っていく。別荘に着くとハボックを車椅子から下ろそうとして、ロイはハボックの手がコスモスを握っている事に気づいた。
「やっぱりピンクが好きか?ハボック」
 ピンクに限らず色んな色を摘んだ中からピンク色の一輪を握っているハボックに、ロイは笑みを浮かべる。恐らくは無意識の、ほんの少し握った手の中に偶々コスモスの茎が入っただけの事なのだろう。それでもハボックの手にピンクのコスモスが握られているのを見れば、それだけで心が暖かくなっていく。
「私もピンクのコスモスが一番好きだよ。お前の瞳によく映える」
 ロイは微笑んでそう言うとハボックの頬にそっと口づけた。


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