セレスタの涙、オニキスの誓い  第七十六章


「ホークアイさん?」
 呆然と病室の扉に縋るように立っていたホークアイは、背後から聞こえた声にハッとして振り向く。そうすればハボックの担当だった看護士が、医療器具の載ったカートを押してホークアイを見つめていた。
「ハボック少尉はどこ?マスタング大佐は?」
 早口にそう尋ねるホークアイに看護士は眉を寄せる。
「ハボックさんは今朝早くマスタング大佐が迎えに来られて退院されました」
「退院?!でも、少尉の容態は────」
 戦場で受けた傷は癒え、ブラッドレイに暴行された傷も入院を要するものではないだろうが、少なくともその精神状態を考えれば簡単に退院出来るものでもないのではないか。そう思って尋ねるホークアイに、看護士は言った。
「ここで立ち話もなんですからあちらへ」
 そう言って看護士はホークアイを小さな会議室へ案内する。
「すぐ戻りますから」
 ホークアイに座って待っていてくれるよう促すと、看護士はカートを押して廊下を行ってしまった。ホークアイは勧められた椅子には座らず窓辺に近寄る。もうすっかりと秋の色合いに変わった空を見上げていると、軽いノックの音と共に看護士が入ってきた。
「すみません、お待たせして」
「いいえ、忙しい時間にごめんなさい」
 そう詫びるホークアイに看護士は首を振って椅子を勧める。窓辺から離れて椅子に腰を下ろすホークアイとテーブルを挟んだ向かいに座って、看護士は言った。
「先ほども申し上げました通り、ハボックさんは今朝方マスタング大佐に連れられて退院されました」
 最初に言ったのと同じ事を言う看護士をホークアイはじっと見つめる。その視線に促されて、看護士は言葉を続けた。
「身体的にはもう問題ありません。その……先日のあの件での傷も、です」
 言いにくそうに口ごもった看護士は、それを誤魔化そうとするように早口に言う。
「精神的な面について言えば、正直もうここではこれ以上何も出来ないというのが先生方のご意見です。だからといって勿論ハボックさんを病院から追い出すつもりもありません。ですが、マスタング大佐が」
「大佐が少尉を退院させたのね」
 看護士に皆まで言わせずホークアイが言葉を引き取るように言った。それに看護士は頷くと、一通の封筒をテーブルに置く。
「マスタング大佐からお預かりした物です。ホークアイさんが来たら渡して欲しいと仰られて」
「大佐が?」
 鳶色の瞳を瞠ってホークアイはテーブルに置かれた封筒を見つめた。丁度その時外から看護士を呼ぶ声がする。
「すみません、私ちょっと」
「ごめんなさい、忙しいわよね。ありがとう、もういいわ」
 笑みを浮かべて言うホークアイに看護士は軽く頭を下げると足早に部屋を出ていった。看護士の背を見送ってパタンと閉じた扉を見つめていたホークアイは、テーブルの上に視線を戻す。少しの間そこに置かれた封筒を見つめたが、やがてゆっくりと手を伸ばして封筒を取った。封を開け、中から四つに折られた便箋を取り出す。そっと広げたそれに記されたロイの言葉を、ホークアイは目で追っていった。


 ハンドルを握って真っ直ぐに前を見つめていたロイは、すぐ先の信号が赤に変わるのを見てゆっくりとブレーキを踏み込む。車が静かに停まると、助手席に座るハボックを見た。
「大丈夫か?ハボック。寒かったりしないか?」
 そう声をかけてハボックの頬に手を伸ばす。確かにそこにいることを確かめるようにそっと触れてくるロイに、だがハボックは何も答えなかった。深くシートに躯を預けたハボックはその空色の瞳を正面に見据えたままだ。どこを見ているのか、何を考えているのか全く判らないハボックの頬をロイは優しく撫でた。
「ハボック」
 その時、信号が変わってロイは手をハンドルに戻すとアクセルを踏み込む。再び前を見据えて、ロイは車を走らせた。


 まるでぼろ布のようになってベッドに四肢を投げ出して横たわるハボックを見た時、ロイの胸に沸き上がったのは激しい怒りだった。まるでロイを嘲笑うかのように、ロイのすぐ目と鼻の先でハボックを傷つけたブラッドレイへの、側にいながらハボックを守ってやれなかった己への、そして再びその躯をむざむざと明け渡してしまったハボックへの────。激しい怒りはロイの身の内で焔となって暴れまわり、ロイの心を魂を焼き払った。そうしてその焔が消えた時、ロイの中に残ったのは底知れぬ絶望と後悔だった。ハボックの空色の瞳がそこにはない物を追い、その唇が最も忌むべき名を吐き出すのを聞いて、ロイはハボックを殺してしまいたいとさえ思った。それでも後悔と共にハボックを抱き締めればその温もりを消し去ることなど出来るはずもなく、胸を占める絶望と後悔を見つめてロイは己に向かって同じ問いを繰り返していた。もしもハボックを抱いていたら、と。だがそんな問いを繰り返したところで何も変わらず、そんな問いに答える者もいはしない。心の奥底ではハボックを取り戻したいと思い続けながら、動けずにいたロイの背を押したのはホークアイの言葉だった。
これは本当のハボックではない、本当のハボックを取り戻せるのはロイだけだと────。
(本当のハボック……私が知っているハボックは)
 ロイは車を走らせながら思う。もう随分と遠く感じる記憶の中を探れば、思い出すのはあの綺麗な空色ばかりだ。
『大佐』
 笑っていても怒っていても泣いていても拗ねていても、いつだってあの空色だけは変わらなかった。空を映した優しく暖かな空色。あの空色に惹かれて自分はハボックを愛した。だが、いまここにいるハボックの瞳は透き通ったガラスのそれで、おそらく本当のハボックはそのガラスの向こう、深い深い奥底で眠っているのだ。
(私はそこからお前を連れ戻す事が出来るだろうか)
 ロイはそう考えながら傍らのハボックを見る。何も答えずただ正面を見つめるガラスの瞳の奥で、自分を迎えに来てくれるのをハボックが待っている気がして、ロイは手を伸ばしてハボックの手をギュッと握った。


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