セレスタの涙、オニキスの誓い  第七十一章


 長い会議を終えてロイが司令室に戻ってくる。「お疲れさまです」とかかる声にも無言のまま執務室に入っていくロイの横顔を見上げたホークアイは、僅かに目を見開くとロイを追って執務室に入った。
「大佐、何か問題でも?」
 後ろ手に扉を閉めてホークアイは尋ねる。窓辺に歩み寄り外を見つめていたロイが、気持ちを落ち着けるように一つ息を吐いて答えた。
「ブラッドレイが来ている」
「えっ?」
 思いがけない言葉にホークアイは目を瞠る。
「何のために?」
「さあな、いきなり会議室に現れた。嫌みったらしく聞かれたよ、元気で活躍してるのかとな」
 ロイがそう言うのを聞いて、ホークアイが眉を寄せた。
「ハボック少尉が入院中なのを知っているんでしょうか」
「まさか。あの男は一度捨てたものに興味を抱くような奴じゃない。私に尋ねたのは偶々顔を合わせたからだろう」
 そう口にしてはみたものの、ロイは俄に不安になる。壁の時計をチラリと見遣るとホークアイに言った。
「中尉、すまんが────」
「どうぞ。構いませんわ」
 言いかけたところでそう返されてロイは驚いたようにホークアイを見る。見つめてくる黒曜石に微笑んでホークアイは言った。
「少尉のところへ行かれるのでしょう?どうぞ、後のことはやっておきますから」
「……すまん」
 言わずとも察してくれるホークアイにロイはすまなそうな笑みを浮かべる。それでもそうと聞けばロイはすぐさま病院に行くために執務室を出て行った。


「あら、マスタング大佐」
 開いたままの病室の扉をノックすれば、汚れたタオルやリネンを取りまとめていた看護士が顔を上げて笑みを浮かべた。
「丁度今、体を拭いてシーツを取り替えたところです」
「いつもありがとう」
 にっこりと笑って病室を出ていく看護士にロイはそう声をかける。パタンと扉が閉まると、ロイはベッドに歩み寄った。
「さっぱりしたか?ハボック」
 ロイは言ってハボックの頬を撫でる。相変わらずハボックは何も答えなかったが、しっとりと滑らかな肌の感触にロイは目を細めた。
「そうか、さっぱりしたか。よかったな」
 そう言うとロイは窓辺に寄る。病室の窓からは少しでも患者の慰めになるようにと植えられた木々が緑の葉を繁らせているのが見えた。
「今日も一日暑かったよ。ブレダ少尉はこんな日に河川の復旧作業だ、気の毒に」
 先日降った大雨の影響で堤防の一部が決壊した。その復旧作業の為、ブレダを始めとした小隊の部下たちは暑い中一日中土木仕事だ。直射日光の中の作業は屈強な軍人と言えどかなりハードで、ブレダは会議ばかりで籠もりきりのロイに『代わってくれ』と言いながら出かけていったのだった。
「私ならくだらん会議に出るくらいなら土木作業の方がいいがね。お前もそう思うだろう?」
 ロイはそうハボックに話しかける。以前ハボックが士官学校の学生だった頃、座学より実技の方が好きだと言っていたことを思い出してロイは言った。
「お前ならどんなに暑くても元気いっぱい作業するだろうな」
 そう言うロイの言葉にもハボックは反応を見せない。もし、ここにブラッドレイが来たとしても今のハボックを見たら何かする気にはならないと思えた。
「アイツは私やお前の反応を面白がっているところがあった」
 たとえ何かしようとしたところで全く無反応なハボックでは忽ち興味を失うに違いない。
「心配し過ぎ、だな」
 ブラッドレイの顔を見てあの声を聞いて、神経質になってしまっただけなのだ。ハボックが入院していることを知っても、あの男なら鼻の先で笑うだけに違いないとロイは思った。
「今のお前を見ても、アイツは嘲笑うだけで何とも思わんだろうな」
 それはそれで悔しいが、ハボックの為には良いことなのかもしれない。
「いいさ、そのうち嫌でも私達のことを忘れられなくしてやる」
 必ずハボックとブラッドレイをあの場所から引きずり下ろしてやるのだ。
「ハボック、その為にも早く戻ってこい」
 ロイはそう囁いてハボックにそっと口づけた。


 晴れ渡った空の下、ガラスのように澄み切った湖が広がる。その中央に彼はただじっと佇んでいた。遙か空の上空で空気が一瞬そよと震えたが、彼のいる世界は変わらずただ静かに漠として広がるばかりで、なんの変化も起きなかった。彼の空色の瞳はガラスのように空を映し湖を映し、それ以外なにも映しはしない。感情のないガラスの瞳は傷ついた魂をその奥底に封じ込めて、せめて砕け散ってしまうことだけはないように大切に護っているようだった。
 彼はただガラスの瞳で宙を見据えて湖の中に佇み続ける。空は何者をも拒むように果てなくどこまでも広がり、湖とその境界を混ぜあって彼をその懐に包み込んでいた。


 ロイが離れ難く思いながらも病院を出た後、微かに医療器具の動作音がするだけの静まり返った病院の廊下にカッカッと靴音が響く。軍病院のスタッフたちがその訪問を驚きながらも理由を尋ねることも出来ないまま見守る中、ブラッドレイはハボックの病室の前に立った。
「ここか。マスタングの大事な大事な部下がいるのは」
 ブラッドレイは笑み混じりにそう呟くとガチャリと扉を開く。中に足を踏み入れ後ろ手に扉を閉めると窓に歩み寄りカーテンを開いた。その途端、中空にかかった大きな満月から銀色の光が病室に降り注ぐ。振り向いたブラッドレイの隻眼に静かにベッドに横たわるハボックの姿が映った。


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