セレスタの涙、オニキスの誓い  第六十七章


 頭上には雲一つない空が広がっている。果てなく広がる透き通った空の下には、これまた果てがない湖が広がっていた。湖には波一つなく、ほんの少しの揺らぎもない湖面はまるで鏡のようだ。湖はその鏡の面(おもて)に空を映し、世界に上下がないように錯覚させた。そんな湖の真ん中、彼は静かに立っていた。全く動かない湖の湖面と同じように、彼はその柔らかな金髪すら微動だにせずその瞳に空の青を映して、ただひたすらに青いその世界の中静かに静かに立ち尽くしていた。


 今日の予定を告げたホークアイはパタンとファイルを閉じてロイを見る。その視線を感じたロイの黒曜石が見返してくるのを見つめて、ホークアイは言った。
「午後は会議や視察、夜はパーティですから」
「それは今聞いた」
「午前中、病院に車を────」
「必要ない」
 ロイはホークアイの言葉を短く遮って立ち上がる。鳶色の瞳が見つめてくるのを感じながら、ロイはそれ以上何も言わず執務室を出た。
 次の日も、そのまた次の日も、来る日も来る日もロイは車を回すというホークアイの言葉を無視し続けた。そうすれば無言のまま見つめてくる鳶色の瞳に耐えきれず、ロイは逃げるように執務室を後にするのが常となっていった。


「こんばんは」
「ホークアイさん、今帰りですか?おつかれ様です」
 いつものようにナースステーションの中に向かって声をかければ、顔見知りになった看護士が書き物をしていた手を止めて顔を上げる。それに軽く手を振って、ホークアイはハボックの病室へと歩いていった。しんと静まり返った廊下を歩き辿り着いた扉をそっと開けて、ハボックが眠る病室に入る。尋ねる時間が時間だったからハボックは眠りについていることが多く、今夜もまたハボックは病室のベッドの上、静かに眠っていた。
「少尉……」
 ホークアイはベッドに近づきハボックの手をそっと取る。眠るハボックの顔を覗き込んだホークアイは、今では随分と筋肉が落ちてしまったことに気づいて顔を歪めた。
『このままの状態が続けば、ハボックさんは遠からぬ将来亡くなると思います』
 不意に以前看護士が言っていた言葉が脳裏に蘇り、ホークアイはハボックの手を握り締める。
「このまま死なせたりしないわ、少尉」
 眠るハボックに誓うように囁くと、ホークアイはハボックの手をブランケットの中に戻し静かに病室を出ていった。


「この書類にサインをお願いします」
 ホークアイは言って書類を差し出す。ロイは書類を受け取ると目を通し、さらさらとサインを認めホークアイに返した。
「────なんだ?まだなにかあるのか?」
 用事は済んだはずなのに執務室から出ていこうとしないホークアイを、ロイは訝しげに見上げる。尋ねても答えようとしないホークアイに、ロイは苛々と眉を顰めた。
「なんだ?用事があるなら早く言いたまえ」
 だが、そう言ってもホークアイはすぐには答えない。ロイはそんなホークアイを不快そうに睨みつけた。
「中尉、いい加減に────」
「いつまでそうやって逃げ続けるおつもりですか?大佐」
 言いかけた言葉を遮られてロイは目を瞠る。見開く黒曜石を真っ直ぐに見つめて、ホークアイは続けた。
「ハボック少尉は逃げませんでした。貴方を守るために必死に立ち向かって戦い続けた。それなのに貴方はその少尉からいつまでそうやって逃げ続けるつもりですか?」
 ホークアイの言葉にロイは息を飲み、それからクシャリと顔を歪めた。
「……君に何が判る?」
「ええ、判りません。そうやって逃げ続ける貴方の気持ちなど判りたくもない」
 そうピシャリと返されて、ロイはグッと言葉を飲み込む。唇を噛み、吐き捨てるように言った。
「あの瞳を見ていたくないんだ……ッ」
「大佐」
「あれはハボックじゃない。あの瞳を見ていると私が惹かれたあの空色を思い出せなくなってしまう……ッ!もう……いっそこの手で殺してしまいたくなるんだ……ッ、現に私はアイツを────」
「でしたら私が殺してさしあげますわ」
「ッッ?!」
 爪が刺さるほど握り締めた手を机に叩きつけて内心を吐露するロイにホークアイが言う。ギョッとして目を瞠るロイを見つめて、ホークアイは言った。
「あれはハボック少尉じゃないのでしょう?もう見ていたくないのでしょう?だったらいっそ後腐れのないよう私が少尉を殺してさしあげます」
「……中尉?何を言ってるんだ?」
 唐突な言葉に半ば混乱してロイが囁く。そんなロイを無表情で見下ろしてホークアイは言った。
「放っておいても何れ痩せ衰えて死ぬでしょうけど、あのまま長らえても貴方の心を乱すだけなら私が少尉を殺します」
 ホークアイはそう言うとクルリと背を向け執務室を出ていく。その背を呆然と見送ったロイだったが、次の瞬間ハッとして慌ててホークアイを追った。
「中尉ッ!」
 ホークアイの姿を追ってロイは廊下を走る。正面玄関を飛び出したロイは、走り出す軍用車の運転席にホークアイの顔を見つけて目を見開いた。
「中尉ッッ!!待てッッ!!」
 慌てて車に追い縋ろうとするが、車はもの凄い勢いで司令部の門を走り抜けていく。ロイは近くの車に駆け寄ると、乗り込もうとしていた軍人を突き飛ばし運転席に飛び乗った。ドアを閉めるのももどかしくアクセルを踏み込む。既に見えなくなったホークアイの車を追いかけて病院へと車を走らせた。
「ハボックを……殺す?」
 ハンドルを握り締めてロイは呟く。無表情に告げるホークアイの顔を思い出せば、背筋を冷たいものが走り抜けた。
「駄目だ……やめてくれ……っ」
 ロイは恐怖に顔を歪めてアクセルを思い切り踏み込んだ。


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