セレスタの涙、オニキスの誓い  第六十五章


「この書類を回しておいてくれ」
 ロイは言って書類を差し出す。そうすればブレダは無言のまま書類を受け取り、執務室を出ていった。
「……」
 口にはしないもののブレダが今も変わらずロイを責めているのは判っている。口数が減った以上に語る瞳が、ハボックがああなったのはロイのせいだとはっきりと繰り返し告げていた。


 ハボックが意識を取り戻した後、改めて詳しい検査が行われた。だが、判ったのはハボックには脳の機能を損なうような重大なダメージは見つからなかったと言うことと、そうであれば今のハボックの状態は精神的なものであるだろうと言うことだけだった。


「……」
 ロイは深いため息をついて眉間を揉む。ふと壁を見遣れば時計の針は六時を過ぎていて、ロイは机の上を片づけのろのろと立ち上がった。カチャリと執務室の扉を開けると丁度顔を上げたホークアイと目が合う。ロイは鳶色の視線から顔を背けると足早に司令室を後にした。
 司令部の玄関をくぐり外へと出たロイを、湿った空気が包む。気がつけば季節は春を過ぎ暑い夏へと向かっていた。ロイは車を使わず湿った空気の中を病院へと歩き出す。そうすれば、ハボックを探して駆け回った乾いた戦場の空気が懐かしく感じられた。
 あの時はただハボックを探し出し連れ帰る事だけを考えていた。ハボックを見つけさえすれば、見つけて無事に連れ帰ることが出来さえすれば、全ては上手くいくと思っていた。確かにロイのつまらない嫉妬心のせいでハボックを深く傷つけ、辛い目に遭わせてしまった。それでも全てはハボックを愛するが故に起こしてしまったことだと、今でも本当はハボックを愛しているのだと心を込めて伝えれば、多少時間はかかってもきっと判りあえると思っていたのだ。だが。
 漸く見つけたハボックを連れ帰ってみれば、ハボックは心をなくしてしまっていた。ロイは病院のベッドの上に座ったままガラスの視線を向けるハボックを思い出し、首を緩く振る。ギュッと唇を噛み締め、爪が刺さるほど手を握り締めて歩き続ければ、いつしか辿り着いた病院の建物をロイは顔を歪めて見つめた。暫くの間そうして見つめていた建物に、ロイはゆっくりと足を踏み入れる。夜間専用の出入口を抜けてハボックがいる三階の病室へ向かった。病室の前に辿り着いたロイはゆっくりと息を吐き出す。それからノックをせずにそっと扉を開けた。


 この日最後の太陽の光が射し込んだオレンジに染まった部屋の中、ハボックは静かにベッドに腰掛けていた。ロイはゆっくりとベッドに近づくと、夕日に照らし出されたハボックの顔を見る。真正面から覗き込んでも、相変わらずその空色の瞳はロイを通り越して遙か遠くを見つめていた。
「ハボック」
 ハボックを見つめてロイは呼びかける。ブランケットの上に置かれた手を取り、その甲を撫でながらハボックに呼びかけ続けた。
「私の声が聞こえないか?ハボック」
「なあ、本当は聞こえてるんじゃないのか?」
「頼む、ハボック、答えてくれ」
「ハボック、私は本当はずっとお前のことが……」
 病室の中、ロイの声だけが響く。だが、その言葉はハボックには届かず、部屋の中で行き場を失って虚しく消えていくばかりだった。
「ハボック……ッ」
 ロイはハボックの手を思い切り握り締める。普通なら「痛い」と顔を歪めるほどの力で握り締めてもハボックの表情に変化はなく、ただガラスの視線をロイの向こうに投げかけるだけだった。
 ハボックが意識を取り戻した日から、ロイは毎日病院に通い続け、こうしてハボックに話しかけていた。だが、どれほど話しかけようと空色の瞳がロイを見ることはなく、ロイは疲れきって部屋を後にする日々が続いていた。
「…………ここにいるのは、本当にお前なのか?」
 ふと、沸き上がった疑念をロイは口にする。もしかしたらここにいるのはハボックによく似た人形で、本物のハボックはまだあの戦場にいるのではないだろうか。もしかしたら今もまだ乾いた風が吹くあの場所で、その命を危険に晒しているのではないだろうか。ハボックを連れ帰ったと思ったのはただの幻想で、自分はハボックを連れ戻したいと願うあまり良くできた人形を持ち帰ってきたのではないだろうか。
 そんな途方もない事を考えて、ロイはハボックを見つめる。「なあ」と呼びかけてもハボックは真っ直ぐ前を見つめるだけで、ロイの方を見ようともしなかった。
「……ッ」
 不意にロイは堪らなくなってハボックの顔を両手で挟み込み、己の方を向かせる。なんとか視線を合わせようとハボックの瞳を見つめたが、その空色の視線を掴まえることは出来なかった。
「く、そ……ッ!いっそ責めてくれ、ハボック!そうすれば、そうすれば私はッ!」
 己の酷い仕打ちを詰られ責められたなら、どれほどに楽だろう。たとえそれが憎悪や責譲であれ、直接ぶつけられれば答えようもあるのにと、ロイはハボックの肩を掴んで激しくその体を揺さぶる。だが、そうされてさえハボックはなんの反応も見せず、ただロイにされるがままだった。
「ハボック、お前は……ッ」
 ロイは叫んでハボックの体をベッドに押し倒す。乱暴な扱いにも何の反応も見せずただ宙を見つめる空色の視線に、ロイはゾクリと震えて人形のようなハボックを見つめた。
「やめろ……ッ、そんな目をするな……ッ」
 言ってロイはハボックの目を掌で覆う。だが、そうしてすらあのガラスの瞳が見えるようで、ロイはゾッと震えると枕を取り上げハボックの顔に押しつけた。
「それはお前の目じゃない……ッ、ハボックの、アイツの目は」
 そう言いかけてロイはギクリとする。かつて己に笑いかけていたハボックの瞳を思い出そうとしたロイは、頭に浮かぶのが硝子玉の人形の瞳しかないことに気づいた。
「そんな……、アイツの、ハボックの瞳はっ」
 何とか思い出そうとすればするほど、頭の中で硝子の瞳が大きくなっていく。ロイは枕を放り投げると変わらず宙を見つめるハボックを真上から見つめた。
「お前が……お前がそんな目をするから……ッ!」
 ハボックの優しい空色の瞳が好きだった。何よりも愛しく何よりも大切だったのに、その瞳をどうしても思い出せない。
「お前がッッ」
 ロイは叫んでハボックの喉に手をかける。グッと体重をかけるようにして両手に力を込めた。
 喉を絞められてもハボックは苦しげな表情すら浮かべない。ただ宙を見つめる硝子玉を見つめながらロイが力を加え続けていれば、ロイの手の中でハボックの喉がクゥと音を立てた。
「ッッ!!」
 微かな筈のその音がやけに大きく聞こえて、ロイはハッとして手を離す。その白い喉にくっきりと己の指の痕がついているのを見て、ロイは目を見開いた。
「私は……」
 己のしたことに愕然としてロイはハボックを見つめる。
「私は……ッ」
 ロイはよろよろと後ずさるようにハボックから離れるとベッドから降り、そして。

 夕日が沈んで薄暗くなった病室の中、打ち捨てられた人形のようにハボックだけがベッドの上に取り残された。


→ 第六十六章
第六十四章 ←