セレスタの涙、オニキスの誓い  第六十二章


 ドオンッとどこかで爆音が響く。ヒステリックに指示を叫ぶ声と意味の判らない怒声が切れ切れに聞こえ、パラパラパラと玩具のような機関銃の音がした。
 ハボックは誰とも知らない相手の腹に突き刺したナイフをゆっくりと引き抜く。そうすれば相手は信じられないとでも言うように穴のあいた己の腹を見つめ、それからハボックを恨めしげに見遣ると何か言いたげに口を開いた。だが、結局唇から零れた音は意味のある言葉にはならず、腹に穴を開けられた男はドウと音を立てて地面に倒れ動かなくなった。
 ハボックは無表情に倒れた男を見つめたが、ゆっくりと歩き出す。最初は小隊として秩序立てて動いていた部隊も、要の大尉を失って、隊としてのまとまりを失っていた。隊員たちはただ生き残るために目の前の敵を死に物狂いで倒そうとし、それは敵側も同じだった。強く、そして幸運に恵まれた者だけがこの血と土埃と硝煙の臭いが充満した戦場で最後まで立っていられるのだ。

「うわあああッッ!!」
 とぼとぼと当てもなく歩いていれば、不意に意味不明のわめき声を上げて兵士が目の前に現れた。自分に向かって振り下ろされる剣を、ハボックは手にしたナイフで受け止める。刃を滑らせるようにして相手の懐に入り込むと体当たりの要領で相手を突き飛ばし、背後によろめく相手の左目にナイフを突き立てた。
「ギャアアアッッ!!」
 恐ろしい絶叫を上げて相手が仰け反る。ナイフが突き刺さったままの目からは驚くほど少量の血しか零れず、まるで相手が大袈裟に痛がっているかのように見えた。兵士はよろよろと歩きながら目に突き刺さったナイフを引き抜く。そうすればナイフに突き刺さった眼球が血潮と一緒に引き抜かれ、兵士は信じられないと言うように残った方の目でナイフに刺さった眼球を見つめた。
「目がァッ!俺の目がァッッ!!」
 兵士は叫んで刺さった眼球をナイフから引き抜こうとする。だが、掴んだ拍子に眼球はグシャリと潰れて、兵士は潰れたそれを抱き締めて血の涙を流しながらギャアギャアと喚き続けた。
 ハボックはそんな兵士を暫くの間無言で見つめていたが、やがて兵士の側に落ちたナイフを拾い上げると、その切っ先を喚く兵士の首に突き刺した。その瞬間、兵士の喚き声がプツリと途絶えグラリとその体が傾ぐ。ドウと地面に倒れて動かなくなった兵士をそのままに、ハボックは血塗れのナイフを手に歩き出した。

 一体、いつになったら歩かずに済むのだろう。人の命を奪うのはこんなにも容易いのに、どうして自分はこうしていつまでも歩き続けなくてはいけないのだろう。いっそこのナイフで自分の心臓を抉ってしまえればいいのにとハボックは思う。だが、そうして自らの命を絶つことだけは、どれだけ死を望もうとハボックには出来なかった。それが最後に残されたプライドなのか、それともただの自己満足なのかハボックには判らない。ただハボックは誰かが己の命を終わらせてくれる事だけを望み、そしてそれは唐突に訪れた。
 血濡れたナイフを手に己の足下だけを見つめて歩いていたハボックは、ふと感じた気配に顔を上げる。そうすれば目の前に兵士が数人、ハボックの行く手に立っていた。兵士たちはハボックが手にしたナイフを見て色めき立つ。同胞を殺したハボックを口汚く罵ると、ハボックに向かって銃を構えた。

 ああ。
 やっとこれで。
 これで何もかも終わる。
 最初に望んだ形で役に立つことは出来なかったけれど
 それでも、これでやっと己の血と肉を
 いずれあの人が立つこの大地の一片と成すことが出来るのだ。

「たいさ……」
 ハボックは瞼の裏に浮かぶ人の名を愛しげに呟くと、全てを受け入れるようとするかのように、ホッとした泣きだしそうな笑みを浮かべて兵士たちに向かって腕を広げた。

「くそ……ッ、どこだ……ハボック、どこにいるッ?答えろッッ、答えてくれッッ!!」
 ロイはハボックの姿を求めて戦場を走る。途中行く手を阻もうとする者は容赦なくその焔で払いのけ、ロイはただひたすらにハボックの姿を求めた。地に横たわる似た姿を見る度心臓が竦み上がり、正気が削られていく。それでもハボックをその手に取り戻す事だけを胸に前へ前へと進んでいけば、不意にその瞬間は訪れた。

「……ハボック?」
 十数メートル先に立つ長身。吹き抜ける風に金色の髪を靡かせるその姿が探して探して探し続けた相手のものだと気づいた次の瞬間、ロイはハボックの更にその向こうに立つ敵兵がハボックに向かって銃を突きつけるのを目にした。
「ッッ!!ハボックッッ!!」
 そうはさせまいと思うより早く、ロイの発火布を填めた手が翻る。擦り合わせた指先から走り出た焔が空中の土埃を焼きながら突き進み、引き金に駆けられた指が命を奪おうと動くより早く敵兵の元へ辿り着いた。

「ギャアアッッ!!」
 焔の龍が目の前の兵士たちを薙ぎ倒す。唐突に繰り広げられる信じられない光景を目の前にして、ハボックは空色の目を大きく見開いた。そうして、暴れる龍が現れた方へとゆっくりと顔を向ける。そうすれば駆け寄ってくるその姿を目にして、ハボックは呆然とした。
「ハボック!!」
「どう、して……?」
 駆け寄ってくる姿を見つめて、ハボックは呟く。漸く訪れた待ち続けた瞬間を、短く指を鳴らすその動きだけで消し去ってしまったロイにハボックは泣きそうに顔を歪めた。
「そうまで、アンタはオレを赦さないの……?」
 ハボックは駆け寄ってくるロイに向かってそう尋ねる。その問いかけにロイは驚いたように足を止めた。
「ハボック?」
「オレの血が肉が、せめてアンタが手にする大地の一片になろうと願うことすら赦さないと、それほどまでアンタはオレを拒むの?」
「ハボック?何を言って────」
「それじゃあ、オレはどこに行けば……どこに行けばいい?もう、どこにも行くところなんて」
 ありはしないのに。
 クシャクシャと顔を歪めて言ったハボックに向かって砲弾が飛んでくるのを目にして、ロイはハッと手を翻した。
「ハボックッ!!」
 庇おうと放たれた火焔が砲弾を包み込みハボックの間近で膨れ上がる、そして。

 アンタに拒まれては、もう。
 どこにも行くところなんてない。

 黒曜石の瞳で己を見つめるロイを見つめ返して、ハボックは思う。次の瞬間────。
 絶望の黒い顎門(あぎと)に心を飲み込まれたハボックの体を、轟音と共に吹き抜けた爆風が吹き飛ばした。


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