セレスタの涙、オニキスの誓い  第六十章


 ディクソンは野営地のテントの入口にかかる垂れ幕を跳ね上げるように開けると中へと足を踏み入れる。折り畳み式の椅子に腰掛ける男の姿を見て、近づきながら声をかけた。
「マスタング大佐っ、これは一体どういうことなんです?」
 イーストシティから連絡が入ったのはほんの数時間前のことだ。その内容とこれからこちらに来るという人物の名前に、ディクソン達が混乱する間に当の人物であるロイがやってきたのだった。
「ディクソン中佐?」
 名乗りもせずの第一声にロイがそう尋ねる。ディクソンは慌てて足を止めるとピッと敬礼をした。
「失礼しました、部隊を預かるディクソン中佐であります」
 ディクソンが改めて名乗ればロイは頷いて立ち上がる。最初のディクソンの問いには答えず早口に言った。
「ハボックはどこだ?連れて帰る、すぐここに呼べ」
「そのことですが、大佐。一体どういうことなのです?いきなり大佐自ら戦場までやってきて少尉を連れて帰るというのは」
 イーストシティからの連絡というのは、人事の手違いでアエルゴの部隊に配属になってしまったジャン・ハボック少尉を至急東方司令部に戻して欲しいと言うものだった。しかもその為にロイ・マスタング大佐が直々に出向いてくるというのだからディクソン達が慌てるのも無理はないだろう。
「どう言うことも何もそのままの意味だ。ディクソン中佐、ハボックをすぐここへ呼べ」
 これ以上の質問は赦さないと言わんばかりのロイの態度に、ディクソンは言葉を飲み込む。だが、その場に立ち尽くしたまま動こうとしないディクソンに、ロイは眉を顰めた。
「中佐」
「ハボック少尉はここにはおりません」
 苛立たしげなロイにディクソンが答える。
「今日の作戦には出ないよう命令が伝えてあった筈なのですが、現在少尉は所属する小隊と共に作戦に参加中です」
「……なんだと?」
 ディクソンの言葉に黒曜石の目が見開く。ゆらりと立ち上る怒気に気圧されて、ディクソンはよろよろと後ずさった。
「も、申し訳ありませんッ、しかし、急な話でしたから伝達が行き届かず──」
「言い訳はいらんッ!ハボックの部隊はどこにいるッ?!」
 ロイはディクソンの襟首を掴んで怒鳴る。ディクソンの声に答えて側に控えていた少尉が、慌てて地図を開いた。
「ここ、です。少尉の部隊は突出してきたアエルゴ側を抑える為にここへ」
 言ってディクソンが指さしたのはアエルゴ戦線の最前線に当たる場所だった。


 辺りを銃声と怒声が支配する。時折響き渡る地面を揺るがす爆発音と降り注ぐ土煙の中、ハボックは機械的に銃を構え敵を撃ち倒し前へと進んだ。
 もう一体どれほどの間こうしているのだろう。一刻も早くこの胸を頭を敵のでも味方のでも構わない、銃弾が撃ち抜いてくれるのを待っているのに、一向に訪れないその瞬間を待って待って待ち侘びて、ハボックは狂気の淵に踏みとどまって戦場を駆けていた。銃声が響きすぐ側でくぐもった悲鳴が聞こえ、ハボックの頬にびしゃりと紅い飛沫が飛ぶ。視線を脇にやれば味方の兵士が物言わぬ塊と成り果てて地べたに転がっていた。どこかで見たことがあると思って見つめた顔が、夕べ己に圧し掛かりその欲をねじ込んできた男のものと重なる。暫くの間その顔をじっと見つめていたハボックだったが、特に浮かぶ感情もないまま目を逸らし、肉塊と成り果てたそれをそのままに歩き出した。頬を垂れてきた血を無意識に手の甲で拭う。その(あか)に惹かれるように目をやったハボックは、愛しいまでのその色を見て顔を歪めた。
 早く。早くこの朱を自分の胸に咲かせてはくれまいか。僅かばかりの正気を保ってロイへの想いを抱いていられる今この間に、ロイの為に己の血をいつか彼が統べるこの大地に染み込ませ、己の肉が欠片でもこの大地の糧になるように。一人でも多くの敵を地に倒し、この地を護って彼に残せる今のうちに。
(大佐)
(たいさ)
(もう、オレの事なんて忘れちまっただろうけど)
(ここの砂粒ひとつでいい。アンタの為になれたら、アンタが踏みしめるこの大地のほんの小さな砂粒でいいから)
(その為に、早く、早くこの命を)
(オレの息の根を止めて)
 ハボックはただその一瞬だけを待ち続けながら、血生臭い風が吹き抜ける戦場を駆けていった。


「お待ち下さいっ、マスタング大佐!今向かうのは危険ですッ!」
 ディクソンはテントから出て歩き出すロイの後を追って叫ぶ。小走りにロイの前へ出るとその進路を塞ぐように立ちはだかった。
「もう部隊は戦闘に突入しています。今向かってもハボック少尉がどこにいるかも判らず危険なだけですッ!」
 戦闘の中、一人の兵士の居場所を探し出し連れ帰るなど正気の沙汰ではない。どんな事情だろうと今はここで待つしかないと押し留めようとするディクソンを、ロイはギロリと睨みつけた。
退()け。退かねば燃やす」
「ッッ!!」
 低く囁くように告げるロイの言葉に本気を感じ取って、ディクソンはよろけるように脇へと退()ける。そうすればゆっくりと歩き出したロイは、徐々に足を早めハボックがいる筈の場所へ向かって駆けていった。


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