セレスタの涙、オニキスの誓い  第三十五章


「大佐、ハボック少尉が昨夜戻られたそうですね」
 朝の定時連絡の為に執務室に入ってきたホークアイが言う。きっと大喜びしているのだろうと思っていたロイは、だが書いていた書類から顔を上げようともしなかった。
「大佐?」
「知っている。夕べ会った」
「お会いになったんですか」
 随分と素早いのはやはりそれだけ帰りを待っていたのだろうとホークアイは思う。
「射撃大会の事はなんと?やはり相当緊張したんでしょうね」
 ファイルを広げながらホークアイは言ったが、聞こえてきたロイの言葉に唇に浮かべていた笑みを消した。
「知らん。聞いてないからな」
「……え?でも」
「奴の話はもういい。今日の予定を聞かせてくれ」
 強引に話を打ち切るロイの態度にホークアイは眉を顰める。
「ハボック少尉と何かあったんですか?」
 ついこの間までの態度とはまるでかけ離れたロイの様子にそう尋ねれば、ペンを置いたロイが顔を上げてホークアイを見た。
「中尉。奴の事は金輪際私の前で口にしないでくれ」
 そう言うロイの瞳に怒りの焔が燃え上がるのを見てホークアイは息を飲む。
「今日の予定を、中尉」
「────本日は十時から」
(一体なにがあったというの?)
 開いたファイルにある予定を読み上げながら、ホークアイは困惑してロイの顔をじっと見つめていた。


「ハボック!やっと戻ってきたか!」
 ロッカールームの扉を開ければそう声が聞こえて、ハボックは俯けていた視線を上げる。そうすればグラントとサイモンが笑みを浮かべて近づいてきた。
「まったく、ちっとも帰ってこないからあのまま大総統のところに配属されたのかと思ったぜ」
「なにせ新兵で三位の凄腕だもんな」
 そう言う二人にハボックは引きつった笑みを浮かべる。
「そんなわけないだろう?オレなんかよりよっぽど腕の立つ人はいるんだから」
「またまた、謙遜しちゃって!」
 ハボックが言えばグラントが笑ってハボックの背をバンバンと叩いた。
「で?向こうではなにをしてたんだ?」
 興味津々といった体でサイモンに尋ねられ、ハボックはグッと言葉に詰まってしまった。
「なにって……」
 そう口にした途端、己に圧し掛かってくるブラッドレイの顔が浮かぶ。強引にねじ込まれ躯の奥深くまでブラッドレイという男に支配された事を思い出せば、不意に吐き気が込み上げてハボックは口元を手のひらで押さえて蹲ってしまった。
「ぐぅ……ッ」
「えっ?ハボック?」
「おい、大丈夫かッ?」
 突然様子がおかしくなったハボックに、グラントとサイモンがギョッとしてハボックの躯に手をかける。肩に置かれた手のひらの感触に、ハボックは反射的にその手を払いのけていた。
「な……ッ?」
「あ……っ」
 驚いて目を見開く二人にハボックは狼狽える。
「ご、ごめ……」
「えっ?あ、おいっ、ハボックッ?!」
 よろよろと立ち上がると、ハボックは驚いた声が呼び止めるのも構わずロッカールームを飛び出していった。


 飛び出した勢いのまま廊下を走り抜けたハボックは、やがてゆっくりと足を止める。壁に手をつき震える唇を噛み締めて、ハボックはギュッと目を閉じた。
「なに、やってんだ」
 競技会が終わっても長いことセントラルにいたのだ。なにをしていたのか聞かれるのは当然のことで、そのたび狼狽えていたのでは不審がられるばかりだ。
(しっかりしろ。知られるわけにいかないんだから)
 ロイの身の保証と引き替えにブラッドレイに抱かれた。それはなんとしても隠さなければならない取引だった。
(あちこち見学と訓練に参加もさせて貰ったって……そう言えばいいんだ)
そ う言うことにしておくのが一番無難だろう。
(────頑張らなきゃ。大佐の側にいられなくてもあの人の為に力を尽くすんだ)
 夕べまんじりともせずベッドの中で過ごす間、出したハボックの結論は、例えロイにどれほど疎まれようと、どんなに蔑まれようと彼のために最善を尽くしたいということだった。ロイの元で働く事は叶わなくてもロイの役に立つことは出来るはずだ。例え捨て石でも構わない。ロイの為に────それだけがもうずっと己の望みだったのだから。
(その為にもちゃんと訓練受けて、早く一人前にならないと)
 セントラルにいる間に随分訓練も進んでしまったらしい。一刻も早く追いついかなくては、役に立ちたい時に使いものにならないのではなんにもならない。
「戻らなきゃ」
 これ以上訓練を休んでは益々追いつくのが遅くなってしまう。ハボックは軽く頭を振るとロッカールームへと走って戻った。


「ハボック!」
 ロッカールームの入口でサイモンとグラントが声をかけてくる。心配そうなその顔に、ハボックは笑みを浮かべて言った。
「さっきはごめん。ちょっと戻しそうになっちゃって」
「大丈夫かよ。なんか変なものでも食ったんじゃないのか?」
「訓練、出て平気なのか?」
 心配して聞いてくる二人にハボックは軽く手を振って答える。
「もう大丈夫。訓練、すげぇ遅れちゃってるから頑張らないとだし」
 そう言いながら中に入れば二人がついてくる。ハボックが手首まで袖のあるハイネックのTシャツを着たまま訓練用のウェアに着替えるのを見て、グラントが言った。
「訓練場、結構暑いぜ?シャツ、脱ぐなり普通のTシャツに着替えた方がいいって」
「……ちょっと風邪気味だからさ」
 親切に言ってくれているのだろう言葉も、胸に突き刺さるように感じてハボックは頬を引き攣らせて答える。そうすれば肩を竦めてグラントは言った。
「そうか?まあ、暑けりゃ脱ぎゃいいけどな」
「おい、早く行こうぜ。遅刻すると中佐が煩い」
「ごめん、お待たせ」
 サイモンに促されて、ハボックはロッカーを閉めるとグラントと共に訓練場へと向かった。


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