セレスタの涙、オニキスの誓い  第三十四章


 差し込もうとすればガチャガチャと耳障りな音を立てるばかりで入るべき場所に収まろうとしない鍵に、ロイはチッと思い切り舌打ちする。なかなか鍵が開かず焔で燃やしてやろうかとロイが思ったとき、漸く鍵穴に収まった鍵がカチリと音を立てて扉が開いた。ロイは乱暴に扉を開けると家の中へと入っていく。灯りもつけずにリビングへ入ると、ロイは乱暴な仕草でソファーに腰を下ろした。
 セントラルの大総統付き秘書官と名乗る女性から電話がかかってきた時、その内容はロイにとって俄には信じられない事だった。ハボックが通っていた士官学校で偶然出会ってから、ロイはハボックと親密な付き合いを続けてきた。ロイは忙しい身であったからそうしょっちゅう会うことは出来なかったが、会えばアメストリスの事、自分の将来の事、これからのこの国の行き先や自分たちの理想をそれこそ時間も忘れて語り合った。年齢や階級を越えて抱いていた友人としての相手への好意が、もっと深い愛情へと変わっていったのはいつからだろう。ロイのハボックへの気持ちが恋へと変わった頃と同じくして、ハボックの気持ちもまた同じように変わったとロイは思っていた。綺麗な空色に浮かぶ色が尊敬と友愛の色から恋慕のそれへと変わったからだ。いつか自分はハボックを手に入れて、そうして共にアメストリスの未来を築く為に手を携えて進んでいくのだと、そう信じて疑わなかった。だが。
 エリゼからの電話でロイの中に生まれた小さな疑念。一滴の滴にすぎなかったそれは、ロイの心の泉に落ちたと同時に波紋となって大きく広がってしまった。
“毎晩、それはそれは献身的に閣下のお疲れを癒して差し上げて”
“大会第三位になる為には力の入れようが違いますのね”
 消そうと思えば思うほど、エリゼの声がロイの耳の奥で響きわたる。そして。
“直接ハボック少尉にお尋ねになったらよろしいですわ。言葉で答えがなくても、躯に聞けば一目瞭然ですし”
 ロイは悪魔のようなエリゼの囁きを実行に移してしまった。
“ブラッドレイと取引したのか?”
 そう尋ねたロイの言葉にハボックは明らかに動揺した。それはロイの疑念を確信へと変える。夢を語り合い互いに惹かれあっていたハボックが、射撃大会の第三位と引き替えにブラッドレイにその身を差し出した事実がロイには赦せなかった。ロイが気づかなければ初出場で第三位を獲得した期待の新兵として素知らぬ顔でロイの隣に立つつもりだったのだと、そんなハボックが汚らわしく薄汚いと思えて仕方なかった。その気持ちは今までハボックに強く惹かれていた分強く激しいものとなった。
「くそッ!!」
 ロイは両の拳でテーブルをダンッと叩く。ふつふつと沸き上がったハボックへの怒りは今ではロイの中で激しい焔となって吹き荒れていた。
「赦さないぞ、ハボック。もしまた私の前にその顔を見せてみろ、灰も残さないよう燃やし尽くしてやる……ッ」
 ギリと歯を食いしばって低く囁いたロイの瞳が、薄闇の中ギラギラと光っていた。


 ガンッと大きな音がして、ハボックはビクリと躯を震わせる。振り返ってみれば酔っ払いが路地に積まれたゴミの缶に凭れるようにして蹲っていた。
 気がつけばアパートのすぐ近くまで帰ってきていたらしい。どこをどう歩いてきたのか記憶にないが、ボタンが弾け飛んだ軍服と引き裂かれたシャツの陰から情事の痕を覗かせた姿で、よくもまあ面倒事に巻き込まれずにここまで帰ってきたものだと、ハボックは苦く笑った。
 残りの十数メートルをトボトボと歩いて、ハボックはアパートの外階段に辿り着く。錆が浮かんだ階段を軋ませながら上がると三階の端の自分の部屋へと向かった。鍵を開けようとポケットの中を探るがなかなか見つからない。漸くボタンが幾つかなくなった上着の内ポケットにゴツゴツとしたものを見つけると、中から鍵を引っ張りだした。
「そっか、なくさないようにって、こっちに入れといたんだ」
 普段入れないポケットに入れておいた鍵で扉を開けながらハボックは呟く。この鍵がなかったら自分はここには帰ってこなかっただろうかと思いながら、ハボックは開いた扉から中へと入った。
 灯りをつけないまま奥へと入る。長いこと締め切ったままのアパートは、空気が淀んでどこか湿っぽかった。普段であれば窓を開けて空気を入れ換えるのだが、今の自分にはこの昏く淀んだ空気が似合いの気がする。ハボックは窓には見向きもせず、小さなソファーに崩れ落ちるように腰を下ろした。ソファーの上に脚を引き上げ膝を抱える。薄闇の中小さくちいさく縮こまれば、さっきのロイとのやりとりが頭に浮かんだ。
“ブラッドレイと取引したのか?”
 そう低く尋ねるロイの声が耳に響いてハボックは首を振る。確かにブラッドレイと取引を交わしはしたが、それはロイが言うように射撃大会で三位になるためではなかった。まして自分から誘うなど絶対にあり得ない。
“見損なったぞ、ハボック。そうまでして名声が欲しかったか”
「違う……そうじゃないっス」
“私がそんな男を喜んで側に置くと思われていたとはな”
「そんなこと思ったことない……っ、オレはアンタの側にいるために名声が欲しいなんて思ったことない……ッ」
 ロイを支えるのに相応しい男になりたいと思ったが、それは名声などという薄っぺらいものに支えられたものではない。業を磨き心を研いてロイの為に役に立ちたいと思っていたし、それは今でも変わらない。
「大佐、オレは……」
 膝をギュッと抱えて言いかけたハボックに、脳裏に浮かんだロイがその黒曜石に侮蔑と嫌悪の光をたたえてハボックを見た。
“汚らわしい。二度と私の前に顔を見せるな”
「ッッ!!」
 耳に響くロイの声がハボックの心を切り裂く。ハボックは弾かれたように立ち上がると、浴室に飛び込み破かれた服を脱ぎ捨てた。シャワーを捻りザアザアと頭から湯を被る。スポンジを取りボディソープを振りかけるとゴシゴシと躯を洗い始めた。
“ブラッドレイにその身を差し出す代わりに射撃大会で三位に”
「違うッ、そうじゃない、オレはッ」
“汚らわしい”
「ッッ!!」
 耳に響く声にハボックはビクッと躯を震わせる。
“汚らわしい”
「たいさ……オレは……っ」
汚らわしい
 何度も何度もロイの声が耳を打ち、ハボックはザアザアと降り注ぐ湯に打たれながら呆然と立ち尽くしていた。


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