セレスタの涙、オニキスの誓い  第三十三章


 カチャリと扉を開けるとハボックは部屋の中を見回す。終業時間を過ぎ、殆ど残る者のない部屋で受話器に向かって話す男をハボックは見つめた。
「ああ、判った、そろそろこっちに着く頃だろうから、────ハボック!……ああ、今帰ってきた。また連絡する」
 見つめてくる視線に気づいて顔を上げたブラウンは、目の前に立つハボックを見て目を瞠る。弾かれたように立ち上がりながら電話の相手に早口で言うと、ブラウンは受話器を乱暴に置いた。
「ハボック!今丁度マドラスから連絡を受けたところだ、やっと帰ってきたんだなっ」
「はい、只今戻りました、ブラウン中佐」
 そう言って敬礼する若い士官に、ブラウンは安堵の表情を浮かべてハボックの肩をバンバンと叩く。
「まったく、なかなか帰ってこんからそのまま大総統付きになったのかと思ったぞ。そうだ、まだ言ってなかったな。三位入賞おめでとう!期待以上の素晴らしい活躍だ」
「ありがとうございます」
 満面の笑顔で言うブラウンに、ハボックは微かな笑みを浮かべて答えた。ブラウンは漸く戻ってきた部下にホッとしたように頷いて言った。
「向こうにいる間も鍛錬は怠らなかっただろうが、こっちじゃ大分スケジュールが進んでしまった。少し力(りき)入れて頑張らんと追いつかんぞ」
「……はい、サー」
「まあ、とりあえず今日はもう帰って休め。明日、色々話を聞かせて貰おう。そうだ、マスタング大佐のところへ顔を出していけ。お前が帰ってこないのを随分気にかけてくれていたからな」
 ブラウンの言葉にハボックは僅かに目を見開く。咄嗟に答える言葉が出てこなくて、ハボックは黙ったままブラウンに向かって敬礼した。そのままブラウンの元を辞すると廊下に出る。部屋の扉に寄りかかるようにして、ドキドキと高鳴る心臓を宥めるように目を閉じた。
(大佐……)
 会いたいと思うと同時に不安が胸に込み上げてくる。何をどう説明すればいいのか、ブラッドレイとの取引のことだけは知られる訳にいかないとハボックが思った時、カツンと響いた足音に目を開けたハボックは目の前に立つ人物を見て目を見開いた。
「大佐」
「戻ったか、ハボック」
 その声を聞き黒曜石の瞳に見つめられれば、自分がどれほどロイを好きでいるかを思い知らされてハボックはロイを食い入るように見つめる。爪が刺さるほどギュッと手を握り締めて、ハボックは何とか一つ瞬きして口を開いた。
「はい、戻りました、大佐」
 掠れた声でそう告げるハボックをロイはじっと見つめる。その強い瞳で見つめられて、ハボックが何もかも見透かされているような、そんな不安を感じ始めた時ロイが言った。
「もう帰れるのか?」
「あ、はい。今日はもう」
「それなら一杯つき合え。三位になったお祝いをしてやろう」
 そう言うなりハボックの返事を待たずにクルリと背を向けて歩き出すロイを、ハボックは慌てて追いかける。無言のまま司令部の正面玄関を抜けて外へと出ていくロイに、ハボックは並んで歩きながら問いかけた。
「車じゃなくていいんスか?」
 そう尋ねてもロイはチラリとハボックを見ただけで何も答えない。普段と何かが違うロイの様子にハボックは俄に不安になった。
「大佐?あの……どこへ行くんスか?」
 一杯つき合えと言ったにもかかわらず、ロイが向かっているのは店が建ち並ぶ界隈ではない。気がつけば目の前に川が見えてきて、ハボックは向かう先が以前ロイと来た川沿いの遊歩道だと気づいた。
「大佐っ」
 階段を下りて遊歩道へと入っていくロイを追いかけてハボックはロイを呼ぶ。その声に足を止めたロイは、少し離れたところで立ち止まるハボックを振り向いた。
「今日は随分きっちりと着込んでいるんだな」
「え?」
 唐突な言葉にハボックが目を見開く。ロイはハボックに歩み寄ると襟元まできちんとボタンを留めた軍服の胸元を手の甲で叩いた。
「セントラルに行く前のお前は、余程必要でない限りいつも上着の前は開けっ放しにしていた。中に着ていたのも襟刳りが大きく開いたTシャツだったな。その理由を一度聞いた時、お前は襟が詰まってると息苦しいから嫌いだと言っていた」
 ロイはそう言うと、手首まで袖のあるハイネックのTシャツを着た上に、軍服の襟のボタンまでしっかりと留めているハボックを見つめる。そんな風に言われて大きく目を見開くハボックにロイは尋ねた。
「何故だ?」
「────夜は、冷えるっスから」
 ほんの少し戸惑うような間があった後、ハボックが答える。じっと見つめてくる黒曜石の強い光を受け止めているのが辛くて、ハボックは僅かに視線を逸らして続けた。
「いつの間にか秋が来てたんスね。日が落ちると急に寒くなる。セントラルよりこっちの方が寒いんじゃないんスかね」
 着込まないと寒くて、と苦笑するハボックの視線を合わせようとしない目元を見つめていたロイが、不意に腕を伸ばしたと思うとハボックの襟元を両手でグッと掴む。ハッとしたハボックが襟を掴む手を振り払う間もなく、ロイは噛みつくようにハボックに口づけた。
「ッッ!!」
 荒々しい口づけに身を強張らせるハボックを抱き締めてロイは深く唇をあわせる。ハボックは必死に首を振るとロイをドンと突き飛ばした。
「────」
 突き飛ばされてロイはハボックを食い入るように見つめる。手を伸ばして軍服に手をかけたロイは、ハボックに逃げる間を与えず強引に上着の前を引き裂くように左右に開いた。
「大──」
 厚地の軍服が嘘のようにボタンが弾け飛ぶ。ロイは逃げようとするハボックのシャツの襟刳りを掴むと力任せに引き裂いた。
「ッ?!やっ!」
「ッッ!!」
 弱い街灯の光の中、白い肌に浮かび上がる痣。それが意味するものが何なのか察して、ロイはギリと歯を食いしばった。
「ブラッドレイと取引したのか?」
「えっ?」
 尋ねれば明らかに動揺した素振りを見せるハボックに、ロイの中に怒りが膨れ上がる。ロイは掴んでいたハボックの襟元から手を離すと同時に、ハボックの体を突き飛ばした。
「ブラッドレイにその身を差し出す代わりに射撃大会で三位になったというわけか」
「ッ?!」
「大会前日の夜、射撃場でブラッドレイと会ったと言っていたな。その時話を持ちかけられたか?それとも」
 と、ロイは低く囁く。
「お前から誘ったか」
「ッ?!違……ッ!」
「見損なったぞ、ハボック。そうまでして名声が欲しかったか」
「違う、大佐っ、違うっス!」
「私がそんな男を喜んで側に置くと思われていたとはな」
 クッと自嘲するように笑ったロイが次の瞬間怒りと侮蔑を込めた瞳でハボックを睨んだ。
「汚らわしい。二度と私の前に顔を見せるな」
「大────」
 ロイは低く吐き捨てるとハボックに背を向けて歩き出す。夜の中に消えていく背を呆然と立ち尽くしたまま見送っていたハボックが、がっくりと膝をついた。
「違う……違うんです、大佐……オレは、オレはただ……アンタが好きなだけ……」
 見えなくなった姿に囁くように呟き続けるハボックの瞳から、涙が零れることはなかった。


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