セレスタの涙、オニキスの誓い  第三十二章


 ハアハアとエリゼは肩で息をしながら床に散らばった書類を睨みつける。そうしていれば怒りと共に沸き上がってきたのはハボックへの憎しみだった。
「なにもかもアイツのせいよ……アイツさえ来なければ閣下がつまらない気紛れを起こすこともなかった、あんな女に秘書官の座を奪われる事もなかったのに……ッッ!!」
 エリゼは鬼のような形相で部屋の中を歩き回る。たとえもうこれ以上、ここにいることがかなわないとしても、このまま黙って消え去るのは己のプライドが赦さなかった。
「赦さないわ……私だけがこんな目に遭うなんて、そんなの我慢できない。私が居場所を奪われたように、アイツの居場所も奪ってやる……ッ」
 エリゼは唸るように低くそう呟きながら部屋の中を見回す。机の上の電話に目をやり、唇の端を上げて笑みを浮かべた。受話器を持ち上げ交換手に目的の相手に回線を繋ぐように言う。多忙を極め席を外していることも多い相手に運良く回線が繋がると、エリゼは愛想の良い声で話し始めた。
「マスタング大佐?こちらは大総統付き一等秘書官のエリゼ秘書官です。何度もお問い合わせ頂いていた件で、急いでお知らせしておいた方がよいかと思いお電話差し上げました」
 そう口にすれば受話器の向こうから勢い込んで尋ねてくる声がする。エリゼは目を細めるとにこやかに答えた。
「ハボック少尉は先ほどこちらでの任務を終了してイーストシティに戻る事になりました」
 エリゼが言えば受話器からホッとしたような息遣いが聞こえる。それを聞いてエリゼは笑みを深めて続けた。
「大総統閣下も少尉の仕事ぶりには大変満足されてましたわ。毎晩、それはそれは献身的に閣下のお疲れを癒して差し上げて、私などとても出る幕がありませんでしたもの。やはり大会第三位になる為には力の入れようが違いますのね、大総統閣下も大変お気に召したようでここまで引き留めてしまったほどですから」
 そんな風に言えば長い沈黙の後、どういう意味だと尋ねる声がエリゼの耳に聞こえる。
「直接ハボック少尉にお尋ねになったらよろしいですわ。夜遅くにはそちらに着くでしょうから。言葉で答えがなくても、躯に聞けば一目瞭然ですし」
 エリゼはそう言うと相手の返事を待たずに電話を切ってしまった。
「うふふ……思い知るといいわ。守りたかった相手に切り捨てられてどん底に落ちればいいのよ」
 そう呟いたエリゼの真っ赤な唇からクスクスと笑い声が零れる。笑い声は徐々に大きくなり、気狂いじみた狂声へと変わっていった。


 ロイは一方的に切れてしまった電話のツーツーという発信音を暫くの間聞いていたが、やがてゆっくりと受話器を置く。たった今大総統の秘書官だというエリゼと名乗る女性からかかってきた電話の内容を、ロイは頭の中で繰り返した。
『毎晩、それはそれは献身的に閣下のお疲れを癒して差し上げて』
『大会第三位になる為には力の入れようが違いますのね』
『大総統閣下も大変お気に召したようでここまで引き留めてしまったほどですから』
「どういう、意味だ……?」
 同じことをエリゼに聞けば直接ハボックに聞けと言う。
『言葉で答えがなくても、躯に聞けば一目瞭然ですし』
「躯に聞けば、だと?」
 そう口にすれば心の底から一つの疑念が沸き上がってきて、ロイはギュッと拳を握り締めた。
(一人残って射撃場にいた時、大総統が来たと言っていた。訓練期間を終えたら大総統のところへ来ないかと言われたと)
(連絡があった時、最初に出たのは大総統だった)
 否定しようと思えば思うほど、思い出される事実がロイの疑念を本当へと変えていこうとする。
「そんな筈は……ハボックに限ってそんな事ある筈がない」
 ロイの脳裏に浮かぶのは明るく笑うハボックの顔だ。そしてなによりロイにエリゼの言うことを信じさせまいとするのは、あの夜ハボックと交わした口づけだった。
「そうだ、絶対に有り得ない」
 ロイがそう呟いた時、執務室の扉をノックする音が聞こえてくる。書類を手に入ってきたホークアイに答えながら、ロイは心の中の疑念を半ば強引に押し潰した。


 ガタンと列車が大きく揺れて、ハボックは下肢から響く痛みとも疼きともつかぬものに顔を歪める。ゆっくりと息を吐き出してその感覚を外へと追いやると、ハボックは窓ガラスにコツンと頭を預けた。
(やっと……帰れるんだ)
 これでもう望まないセックスを強いられる事もない。後はただ訓練に励んでロイの背中を守ることだけ考えればいい。
(側にいるだけなら、いい、よね?)
 ロイに好きだと告げることは出来なくても、前へと邁進する彼の背中を守ることなら出来る。ロイの盾になるくらい、穢れたこの躯でも出来る筈だった。
(射撃大会に出るために列車に乗ったのが遠い昔の事みたいだ)
 あの時は自分の身に起きることなどこれっぽっちも想像していなかった。
(大会の代表に選ばれてセントラルに行って、射撃場で大総統に声をかけられて、大会で三位になって、そして────)
(大佐に、笑って報告したかったなぁ)
(笑って、報告して、それから)
(好きって)
(大佐が好きですって)
(言いたかったのに)
(もう)
(言えないんだ)
 ようやっとイーストシティに向かう列車に揺られながら、ハボックは窓に身を凭せかけてただ静かに涙を流していた。


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