セレスタの涙、オニキスの誓い  第百三十二章


「ほら、もういい加減に泣きやめ。明日の朝目が開かなくなるぞ」
「だって……っ」
 アパートに戻ってからずっと泣きっぱなしのハボックの涙に濡れた頬を指先で拭ってロイはクスリと笑う。手の甲でゴシゴシと乱暴に目元をこするハボックの手首をロイは掴んでやめさせた。
「ああほら、真っ赤になってるじゃないか」
 子供のような仕草でこすったせいで涙に潤んだ瞳が紅く腫れてしまっている。ロイはハボックをそっと引き寄せ空色の目元に舌を這わせた。
「たいさっ」
 そんな事をされてハボックが顔を赤らめてロイを押しやる。じっと見つめてくる黒曜石に恥ずかしそうに目を背けた。
「顔、洗ってきます」
 早口にそう言ってハボックは立ち上がる。どことなく覚束無い足取りで洗面所へ行くと洗面台に手をつき涙に濡れた顔を覗き込んだ。
「ひでぇ顔……」
 さっきから散々に泣いたせいで相当に情けない顔になっている。ハボックはジャバジャバと冷たい水で顔を洗うとタオルを顔に押し当て、ハァと大きなため息をついた。気持ちを落ち着けるように目を閉じていたハボックは気配を感じて目を開ける。そうすれば洗面所のドアに凭れるようにして見つめてくるロイと鏡越しに目があった。
「大佐……」
 呟く声にロイはハボックを背後から抱き締める。服越し感じる体温にハボックはキュッと唇を噛み締めた。
「大佐、オレ……」
「ん?」
 ハボックは何度も口を開きかけては結局また口を閉ざしてしまう。言いたいことは幾らでもあるのだろうが、恐らくは上手く言葉を見つけられないのだろう、そんなハボックの様子にロイは優しく笑った。
「配属先の希望、ちゃんと私の名前を書くんだぞ」
「────はい」
「待っているからな」
「はい、──ッ?!たい────」
 ハボックが答えるなりロイは背後から抱き締めていたハボックの体を乱暴な仕草で反転させて、噛みつくように口づける。反射的に押し返そうとするハボックにそうさせず、更に深く唇をあわせた。
「んんッ!ん−−ッッ!!」
 きつく舌を絡め取られ口内を蹂躙され、呼吸さえも奪うような激しい口づけにハボックは縋るようにロイの背に腕を回す。クシャクシャとロイのシャツを握り締め、しがみつくようにして必死にロイの口づけに答えていたハボックだったが、半ば酸欠のようにクラクラとなってガクリと膝が折れた。
「た……さァ」
「ハボック」
 ガクリと頽れた躯をロイはしっかりと受け止める。キスにとろんと蕩けた瞳で見上げてくるハボックの首筋に唇を寄せて囁いた。
「欲しい」
「ッッ!!」
 低く熱い囁きにハボックがビクリと震えてロイを突き放す。だが、腕の長さの分だけ開いた距離をロイは瞬く間に縮めるとハボックを引き寄せた。
「たいさっ」
「お前が欲しいんだ」
 そう言って見つめてくる黒曜石にハボックは息を飲む。狂おしい程の恋情の焔をたたえた瞳から逃れることが出来ずに凍り付くハボックを、ロイはそっと抱き締めた。
「愛している、ハボック。お前が欲しい」
「大佐……」
 自分とてロイを愛している。それでもロイの前に全てを曝すのは恐ろしくて、ハボックは唇を噛み締めて俯いた。
「愛してる、ハボック……愛している」
 そんなハボックを、ロイは抱き締めて何度も囁く。さっきの激しいキスが嘘のように優しく何度もハボックの顔にキスを降らせた。
「愛している」
「たいさ……」
 何度も優しく囁かれる言葉にハボックは僅かに目を見開く。その優しい囁きが一人ぽつねんと佇んでいた鏡の面をたたえた湖で聞いたことを思い出して、ハボックはクシャリと顔を歪めた。
「ハボック……?」
 そんなハボックの表情の変化に気づいたロイが優しくハボックを呼ぶ。ハボックは顔を上げて真っ直ぐにロイを見つめた。
「あの時のあの声……大佐だったんだ」
 一人心を閉ざしてしまった自分を現実へと引き戻した優しい声。深い眠りから目覚めた時は突然アエルゴの戦地から引き戻された現実についていけなくて、あの声がロイのものだと気づかなかった。目を閉じ耳を塞いで今も様々な想いに雁字搦めになってうずくまってしまう自分を、ロイは想いのこもったその声で導いてくれようとしている。
「大佐、オレ……っ」
 ハボックは手を伸ばしてロイの胸元にしがみつく。
「ごめんなさい……オレ」
 迷って間違って、こんな薄汚れた身でこんな事を言う資格などないのかもしれない。それでもロイの声が導いてくれるならロイの手が己のそれを引いてくれるならずっとついていきたい。
「こんなオレでも、いいんスか?」
 ブラッドレイに、アエルゴの地で男たちに、醜く傷を刻まれたこんな自分でも。
「お前でなければ駄目だ、ハボック」
 問えばきっぱりと返される言葉に、ハボックは泣きそうに顔を歪めると自分からロイに口づけた。


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