| セレスタの涙、オニキスの誓い 第百三十章 |
| 「たい……」 呼びかけに答えるように唇に乗せようとした相手の名は喉がひりついて音にならない。じっと見つめてくる黒曜石を受け止めきれず、ハボックは目を逸らして俯いた。そうすればコツコツと近づいてくる足音がしてハボックの体がビクリと震える。ロイが側に来るより先に、ハボックはくるりと背を向け足早に歩き出した。 「ハボック」 聞こえる声から逃げるようにハボックは足を早めようとする。ロイと向き合うのを恐れる気持ちが早くと急かせるのとは裏腹に、足がもつれてハボックは何度も転びそうになった。 「あっ」 ガッと僅かな地面の突起に足をひっかけてハボックの体が前のめりに倒れ込む。倒れる体を後ろから伸びてきたロイの腕が支えた。 「ハボック!」 「ッ!」 グイと体を引かれてハボックは息を飲む。反射的にギュッと目を瞑ったハボックの耳にロイの声が聞こえた。 「大丈夫か?」 「……は、はい」 尋ねる声にハボックは目を瞑ったまま答える。顔を上げるどころか目を開けることも出来ないでいるハボックにロイが言った。 「話をしたい」 「大佐、オレ……っ」 「話をさせてくれ」 低い、だがきっぱりとした声にハボックは漸く目を開ける。恐る恐るロイを見れば真っ直ぐに見つめてくる黒曜石に、ハボックは慌てて視線を落とした。 「ハボック」 「判り、ましたから……手、離してください……」 ハボックは小さな声で答える。そうすれば転びかけた体を支えたまま離されずにいた手が離れて、ハボックはホッとため息を零した。 「アパートに……」 どういう話が交わされるにしろ外でするような内容にはならないだろう。ハボックはロイを促してゆっくりと歩き出す。後からついてくるロイの気配を感じながら、ハボックはキュッと唇を噛んだ。 (オレはどうしたいんだろう……) アパートへの長くはない距離をゆっくりと歩きながらハボックは思う。 (違う……どうしたいかなんて判ってる。オレは……) 『馬鹿でもなんでも護るって決めたんだろう?だったら迷うな。大丈夫、お前がちゃんと顔を上げていたらきっと最後は上手くいく』 不意にリンチの声が脳裏に蘇ってハボックは目を見開く。顔を上げられずにいるハボックの足下、アパートの階段が見えてハボックはゆっくりと階段を上った。続いてくるロイの足音を聞きながら階段を上がりきり己の部屋へと向かう。ポケットから鍵を出して扉を開け、背後のロイに言った。 「どうぞ……散らかってるっスけど」 「ありがとう」 促せばロイは一言言って中へと入っていく。その背を見た途端、ハボックの中に色んな感情が 「ハボック?」 「どうして……ッ、どうしてこんな……ッ」 どうしてこんな風になってしまったのだろう。自分が望んだのはとても単純な事だったのに。ロイと出会って、その魂の輝きに魅せられて、一緒にこの国を変えていきたいと思った。その背中を護って一緒に歩いていきたい、ただそれだけだったのに。 「オレは……ッ」 ハボックの脳裏にこれまでの事が次々と思い浮かぶ。 ロイと出会った日の事。 士官学校を卒業し、これからのことに胸躍らせて東方司令部にやってきた日の事。 射撃大会に出場するため緊張と誇らしさを抱えてセントラルへと向かった日の事。 三位という好成績を収めて喜びに震えた日の事。 そして────。 まざまざと思い浮かぶのは己を見下ろす隻眼。要求されるまま躯を差し出した。ブラッドレイの意に逆らう事など思いも浮かばずその身の奥深くに男を迎え入れ────。 その後も何度もブラッドレイに抱かれた。東方司令部で、病院で、ホテルで、ブラッドレイの形のままに躯を開かれ最奥を男の熱で濡らされた。それだけではない、あの焼け付く戦場、アエルゴの地で自分は何をしただろう。伸びてくる幾つもの手を思い出せばハボックの躯が震える。何人もの男に貫かれ熱を注がれ、それを拒みもせずに受け入れた己を思い出せばハボックは嫌悪に吐き気が込み上げてきた。 「ぐぅ……ッ」 口の中に広がる苦みにハボックは口元を押さえて蹲る。驚いて伸ばされるロイの手をハボックは激しく振り払った。 「ハボック?!」 「駄目っス!やっぱりオレは顔を上げている事なんて出来ない!オレはもう……アンタの背中を護れないッ!」 顔を歪めたハボックの唇から悲痛な叫び声が零れた。 |
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