セレスタの涙、オニキスの誓い  第百二十八章


 翌日。いつもと変わらずハボックは司令部に向かう。訓練のために闘技場へ行けばブラッドレイと個人的に面識があると知った新兵達が、次々とハボックに話しかけてきた。それに適当に答えを返したハボックが視線を感じた方を向くと、リンチが険しい顔でハボックを見ていた。
「夕べはありがとう」
 ハボックはリンチに近づいて言う。
「借りた服、洗濯して持ってきたから後で返すね」
「────急がないって言ったろう?」
 ムスッとあからさまに不機嫌を顔に出すリンチにクスリと笑うハボックを、リンチはギロリと睨んだ。
「怒んないでよ」
「怒ってねぇよ」
 プイと顔を背けてリンチが答えた時、集合の声がかかる。それに答えて歩き出すハボックの歩みがほんの僅か鈍るのを見て、リンチは唇を歪めた。それでもハボックが何事もないかのように訓練を始めるのを見れば口にする言葉もない。ブラッドレイと手合わせした後に感じた誇らしげな気持ちは遙か彼方に消え失せて、リンチは苦い思いを抱えながら仲間たちに混じって訓練を始めた。


「今日はここまで!」
「「ありがとうございましたッ!!」」
 長い一日が終わってハボックはホッと息を吐く。何とか訓練を終えることが出来たことに安堵すれば張り詰めていた気持ちが途切れて、目の前の景色が紗の向こうに霞みそうになるのをハボックは緩く頭を振ってこらえた。
 他の新兵達がシャワーを浴びにロッカールームへ向かう中、ハボックは片づけをするフリをしてその場に留まる。両手首につけたリストバンドの下には拘束の痕がまだくっきりと残り、躯中に残る陵辱の痕の事も考えればとても他人がいるところでシャワーを浴びる訳にはいかなかった。
 ハボックは闘技場を出ると廊下を歩き出す。階段を上がりここを曲がって真っ直ぐに行けば司令室に出るという角で立ち止まった。まるでそこに見えない壁があるとでも言うように進めぬまま廊下の先を見つめて、ハボックは立ち尽くす。一つため息をつくと元来た道を帰ろうとしたハボックは、背後からかかった声に足を止めた。
「ハボック」
「────ブレダ」
 久しぶりに顔を合わせた友人にブレダは笑みを浮かべて足早に近づいてくる。
「よう、調子はどうだ?」
「うん……まあまあかな」
 聡い友人に悟られないよう殊更さばさばと答えるハボックにブレダが言った。
「大佐ならいないぜ。急に出張が入ってさ」
「────そう」
 ロイがいないと聞けばいつの間にか緊張していたハボックの躯から力が抜ける。ふらりと傾いだハボックの躯を伸びてきたブレダの腕が支えた。
「おいっ、大丈夫か?」
「あ……うん。訓練ハードでさ」
 もうヘトヘト、と笑うハボックをブレダがじっと見つめる。見つめてくる視線を正面から受け止めて真っ直ぐに見つめ返してくるハボックに、ブレダはフゥと息を吐き出して言った。
「無理すんなよ。ゆっくりな」
「判ってるよ────じゃあな」
 夕べハボックに起きたことは知らずに言うブレダにハボックは答えて今度こそ背を向けて歩き出す。知らず口元にやった掌の中に震える吐息を吐き出して、恐らくはまだこちらを見ているであろうブレダの視界から少しでも早く消えようとハボックは手近の角を曲がった。
「大佐、いないのか……」
 夕べ、あんな形で置き去りにしてしまった相手の不在にハボックはホッと息を吐く。軽い目眩に襲われて、ハボックは壁に寄りかかって目を閉じた。
 たった一人大切に想う相手を護りたいと思う気持ちは変わらないものの、その気持ちのままには動くことが出来ない。それでもいつまでもこのままでいる訳にはいかないこともよく判っている。その中でのロイの不在にハボックは申し訳ないと思いながらも安堵せずにはいられなくて。
「たいさ……」
 閉じていた目をうっすらと開いたハボックは、徐々に暮れゆく空に愛しい相手の姿を探して窓の向こうに広がる空を見上げた。


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