セレスタの涙、オニキスの誓い  第百二十六章


「じゃあな」
「おう。また寄ってくれよ」
 リンチは昔馴染みのバーテンが言うのに手を上げて答えると扉を開けて店の外へと出る。酔って火照った顔に夜風が心地よく、リンチはポケットに手を突っ込んで歩きだした。
 今日も一日いい訓練が出来たと思う。この国の最高権力者であるブラッドレイがいきなり訓練に参加してきたのには驚いたが、それはまたそれでいい経験になった。ほんの僅かな時間ではあったがブラッドレイに手合わせして貰って、彼がこの国を先導する者に相応しい実力を持っていることが肌を通して感じられた事にリンチは満足げな笑みを浮かべた。そうして今日の訓練の事を思い出せば不意にハボックの事が頭に浮かぶ。新兵でありながらブラッドレイと面識がある事に驚いて尋ねてみたが、明らかにそのことには触れられたくない様子にそれ以上聞くことは躊躇われて、結局そのまま訓練が終われば気がついた時にはハボックの姿は見えなくなっていた。
(一体どういう……射撃大会でいい成績を取ったとは聞いたけど)
 新兵として射撃大会の出場選手に推されただけでも大したものだが、その中でプレッシャーに負けずに成績を納めたのは確かに素晴らしい。だが、それだけでブラッドレイの目に留まるものなのだろうか。
(なんだか様子がおかしかったな)
 以前、偶然町中で会って飲みに誘った時の事をリンチは思い出す。思い詰めた顔で自分を抱けと友人たちを誘ったハボック。流石にそのままにはしておけず、半ば強引にその場からハボックを連れ出したが、その事もなにか関係あるのだろうか。
「────考えても仕方ないか」
 ブラッドレイとハボックに何があろうと自分には関係のないことだ。ハボックは仲間ではあるが、その生活に深入りする立場にはない。リンチは懐から煙草を取り出すと火をつけるために足を止める。火のついた煙草を吸ってフゥと煙を吐き出し再び歩き出そうとしたリンチは、誰かに呼ばれたような気がして辺りを見回した。そうすれば。
「────?」
 すぐ側の路地の片隅に白いものが蹲っている。それが人だと気づいて、リンチは用心しながら近づいていった。
「────ハボック?!」
「やあ、リンチ」
 近づけば見上げてくる空色に、蹲っていたのがたった今考えていた人物その人だと判って、リンチは目を瞠る。白く見えたのはバスローブで、リンチはハボックがバスローブ一枚羽織っただけの姿でいることに驚いて目を瞬かせた。
「お前、そんな格好でなにしてんだ?」
 誰であろうと当然思う疑問をリンチは口にする。だがハボックは困ったように笑っただけで質問には答えず、別のことを言った。
「あのさ、こんなの頼めた事じゃないのは判ってるんだけど、後で金払うから服を買ってきて貰えないかな」
「それは構わないけど……」
 質問に答えて欲しいと思ったものの、近くで酔っ払いが上げた大声にハボックがビクリと震えるのを見ればまずは服を用意してやるのが先だと思い直す。だが、夜も更けたこの時間、服を買えるような場所が近くにあるか思いつけず、リンチは少し考えてから口を開いた。
「すぐそこのバーで、知り合いが住み込みでバーテンしてんだよ。ソイツに服借りた方が早い、ちょっと行ってくるから待ってろ」
 リンチはそう言うと上着を脱いでハボックの肩にかけてやる。見上げてくる空色に安心させるように金髪をくしゃりと掻き混ぜて、リンチは急いで来た道を戻った。
「カトラー!」
 バンッと乱暴にドアを開けて店の中に飛び込むなりリンチはバーテンの名を呼ぶ。カウンターの中でグラスを拭いていたバーテンは、たった今し方帰ったはずのリンチが戻ってきたのを見て目を見開いた。
「どうしたんだよ、何か忘れ物か?」
 そう尋ねてくるカトラーにリンチは足早に近づく。カウンターから身を乗り出すようにしてリンチは早口に言った。
「悪いけど服一式貸してくれないか?────新しい下着があればそれも」
「はあ?」
 おそらくはバスローブの下は何もつけていないだろうと咄嗟に考えてリンチは言う。キョトンとするカトラーを急かして服を借りるとリンチは急いでハボックのところへ戻った。
「ハボック」
 もしかしていなくなっているのではと不意に不安になって走って戻れば、ハボックは肩に上着をかけたまま路地の片隅に小さく蹲ったままだった。ホッと息を吐いてリンチは服を入れた袋を差し出して言った。
「ちょっと丈が短いかもしれないけど勘弁な。下着も入ってるから」
「────ありがとう」
 言えば僅かに目を瞠ったハボックが、ホッと息を吐き出して答える。よろよろと立ち上がったハボックが差し出してきた上着と引き替えに袋を渡せば、ハボックは下着を取り出して身につけた。ボトムをはいたところでハボックがバスローブを脱ぐ。路地の薄暗がりの中でもはっきりと判る白い肌に浮かぶ痣と手首にくっきりと残る拘束の痕を目にして、リンチは思わずハボックの腕を掴んだ。
「おい、それ……ッ」
 掴んだ腕を引いてハボックの手首を見る。その痕が告げている事実に、リンチは低く呻いた。
「誰にヤられた?」
「────お前に関係ない」
「ッ、服借りてきてやったろう?」
 そう言われてハボックが無表情にリンチを見る。
「どうしてそんな事聞くの?」
 どうしてと尋ねられてリンチは一瞬答えに迷った。確かにそれを聞いてどうするというのだろう。だが、以前自分を抱けと友人たちを誘った時の危ういハボックの様を思いだしてリンチは言った。
「前に俺の仲間を誘ったろう?まさかまたあんな事してんじゃねぇだろうな?」
 別にハボックが誰を誘おうと彼の勝手だと言われてしまえばそれまでだし、実際そうなのだろうとも思う。それでも何故だかそんなハボックを見ているのは忍びないのも事実だった。
「そういうんじゃないよ」
「それじゃあ────」
 流石にレイプされたのかとは口に出せずリンチは言葉を飲み込む。じっと見つめてくるリンチを見返していたハボックが、視線を落として言った。
「そうだね、合意の上じゃなかったのは確かだね」
「ッ!どこのどいつだッ?ふざけやがって……ぶっ飛ばしてやるッ」
 カッと怒りに顔を歪めるリンチをハボックが落としていた視線を戻して見つめる。
「優しいね、リンチは」
 笑みを浮かべてそんな風に言うハボックに、リンチは苛々として言った。
「何言ってんだ、お前。犯罪行為だろうっ?ぶん殴って憲兵隊につき出してやらないと────」
「犯罪行為になんてならないよ。憲兵隊にもつき出せない。彼は────この国のルールだから」
「は?」
 ハボックの言う意味が判らずリンチは眉を寄せる。そうすれば「服は今度返すから」と礼を言って背を向け歩き出そうとするハボックの肩を、リンチは慌てて掴んだ。
「この国のルールってなんだよ。それって、ソイツのする事には誰も何も言えないって事────」
 そこまで言ってリンチはハッとする。頭に浮かんだ鋭い隻眼を持つ男の姿に、リンチは目を見開いてハボックを見つめた。
「それって、まさか」
 流石に名前を出すことは憚られてリンチは食い入るようにハボックを見る。見つめてくるリンチに笑みを浮かべたハボックの瞳から不意にポロリと涙が零れて落ちた。
「ッ!」
「どうしてオレってこんな馬鹿なのかなぁ。そのせいであの人のこと一杯傷つけて……オレはただ、あの人を護りたかっただけなのに」
「ハボック」
 笑みを浮かべたまま静かに涙を零すハボックを、リンチはかける言葉を見つけられず呆然と見つめていた。


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