セレスタの涙、オニキスの誓い  第百二十五章


「大佐、こちらの書類にサインをお願いします」
 ノックの音に続いて執務室に入ってきたホークアイが書類を差し出して言う。窓の外の空を見上げていたロイは視線を戻して書類を受け取ると、中身に素早く目を通してサインを認めホークアイに返した。
「この後の会食ですが、途中の道路が工事中で迂回しなくてはなりませんので早めに出たいのですが」
「判った。すぐ行くから先に行っていてくれ」
 そう言うロイに頷いて、ホークアイは書類を手に執務室を出ていく。パタンと閉まった扉を見つめたロイは、立ち上がらずにもう一度窓の外の空を見上げた。
「ハボック……」
 綺麗に晴れ渡る空を見れば愛しい相手の名が口をついて零れる。ロイは緩く首を振って立ち上がると執務室を出た。


 あの日、気を失ってしまったハボックをロイは改めてとったホテルの別の部屋に運んだ。あのままハボックを運び出せばいらぬ注目を浴びてしまうと思ったからだ。ブラッドレイに身も心も傷つけられたハボックをこれ以上傷つけるのはロイの本意ではなく、今更と言われたとしてもハボックを護ってやりたいと言うのがロイの心からの願いだった。だが。
『ハボック?』
 破かれた服の代わりを用意するために部屋を出たロイは、ベッドに寝かせた筈のハボックの姿がなくなっていることに気づいた。慌てて部屋の中を探したもののハボックはどこにもおらず、まさかまたブラッドレイに連れ去られたかと焦ったロイが部屋を飛び出そうとすればリンと電話のベルが鳴る。飛びつくように掴んだ受話器からハボックの声が聞こえて、ロイは目を見開いた。
『ハボックっ、どこにいるッ?まさかまた……ッ』
『すんません、大佐……オレなら大丈夫っスから』
『ブラッドレイと一緒にいるのか……ッ?』
 なにより恐れていることをロイは震える声で尋ねる。だが、囁くような声が『いいえ』と答えて、ロイは受話器を握り締めて声を張り上げた。
『どこにいるッ?どこにいるんだッ、ハボック!』
『たいさ』
『答えろッ!今すぐそこへ行くから────』
『オレなら平気っス。でも、今は』
────顔を見られたくない。
 囁くように言う声にロイは目を瞠る。言うべき言葉を見つけられずにいるロイの耳に、もう一度『ごめんなさい』と囁く声が聞こえたのを最後に電話が切れた。


 翌日から急な出張に行かねばならなくなり、結局そのままハボックと話をする事は出来なかった。電話もつながらず、なにをしても心の半分をハボックのことが占めたままロイは出張先での所用を済ませ今朝方イーストシティに戻ってきたところだった。
「すまん、待たせた」
「いいえ、まだ時間はありますから」
 正面玄関の扉を抜けてステップを降りたロイは、車の側に立つホークアイに向かって言う。ホークアイが開けた扉から車に乗り込んだロイは、運転席に回ったホークアイがハンドルを握るのを待って言った。
「中尉、出張明けで忙しいのは重々承知だが、今日は会食の後の会議が済んだら上がらせて貰えんか?」
 そういう声にホークアイはミラー越しロイを見る。真っ直ぐに見つめてくる黒曜石に浮かぶ焦燥の色に、僅かに鳶色の瞳を瞠ったホークアイは一瞬間をおいて答えた。
「判りました。会議後の予定はキャンセルしておきます」
「すまん」
 そう答えたロイが少しだけホッとしたように息を吐く。ミラーに映るロイの横顔をホークアイは見つめて言った。
「私に出来ることがあれば何でも言ってください」
 この上官がこんな顔をするのは彼の大事な人が関わっているときだけだ。なにがあったのか話したくないならそれでもいい。力になりたいと思っていることだけは伝えたくてそう言えば、ロイが驚いたように振り向いた。
「────ありがとう、中尉」
 囁くように言って見つめてくる黒曜石にホークアイはミラー越し微笑みかける。そうすれば小さく頷いて再び窓の外へと視線を向けるロイを乗せて、ホークアイは車を走らせていった。


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