セレスタの涙、オニキスの誓い  第百二十二章


「おい、ハボ、急げよ!もうすぐ講演始まるぞ!」
 教室の扉から体半分出ながらブレダが言う。かったるそうに椅子から立ち上がったと思うと、ウーンと伸びをするハボックにブレダが苛々と足踏みした。
「ハボック!」
「んー、先行ってて、ブレダ。ちょっとトイレ」
「はあ?トイレなんて行ってる場合か!もう始まるっての!」
「腹の具合が悪いんだよ」
 そう言って腹をさするハボックにブレダは眉を寄せる。
「大丈夫か?」
「トイレ行けば平気、先行ってて。それとも連れフンする?」
「するか、阿呆」
 ニヤリと笑って軽口を叩くハボックに、ブレダは呆れて返すと「先に行ってる」と教室を出ていった。ハボックはひらひらと手を振ってそれを見送ると大きな欠伸を一つする。それからボリボリと頭を掻いてため息をついた。
「講演会なんてめんどくせぇ……。イシュヴァールの英雄だかなんだか知らないけどさ」
 今日の午後、ハボックの通う士官学校では講演会が開かれることになっていた。あと十五分ほどで講演が始まるとあって、生徒たちは一斉に講堂へと移動しているところだったが、ハボックは教室を出るとぞろぞろと講堂へ向かう生徒たちの流れに逆らって廊下を歩いていく。そうして人気のない資料室の扉を開けると中へと入り込んだ。
「つまんない講演聞くよりここで昼寝してた方がよっぽど有意義だ」
 ハボックはそう呟きながら書架の間を通って奥へと進む。奥まった片隅、資料の間に隠してあったブランケットを引っ張り出すと天窓からの光が射し込む特等席に敷いてその上に腰を下ろした。
「んー……はあぁ……」
 手を突き上げて伸びをしたハボックは大きく息を吐くと居心地の良いように座り直し壁に寄りかかる。そうして目を閉じると瞬く間に眠りに落ちていった。


「……」
 コツコツと誰かが資料室の中に入ってくる足音がする。ゆっくりと近づいてきた足音が驚いたように一瞬立ち止まったと思うと、見つめてくる強い視線を感じてハボックは眠りの淵から引き戻された。
「ん……」
 ハボックは近くに人の気配を感じてゆっくりと目を開く。強い光をたたえる黒曜石を綺麗だなと思いながらぼんやりと見つめ返した次の瞬間、それが人の瞳だと気づいてハボックは驚きのあまり素っ頓狂な声を上げかけた。
「うわ────、フガ……ッ」
「シーッ!」
 声を上げかけた口を掌で押さえられて、ハボックはフガフガと言いながら掌の持ち主を見る。男は肩越しに資料室の扉の方を見遣って誰も来ない事を確かめるとホッと息を吐いた。
「よかった、誰も来ないな、───っと」
 安心して肩の力を抜いた男は、口を塞がれたハボックに睨まれていることに気づいて目を瞠る。すまなそうに笑った男が手を離すと、ハボックはプハッと息を吐き出して言った。
「何なんスか、アンタっ」
「すまんすまん。ちょっと見つかりたくなかったものでな。だがそれは君も同じだろう?」
「それはそうっスけど」
 どうやら同じようにサボリを決め込んでここへ隠れにきたらしい男をハボックは胡散臭そうに見る。黒髪に黒い瞳をした男は軍人のようだったが、脱いだ上着を中表に畳んで持っていて階級は判らなかった。
「これから講演会があるんだろう?行かなくていいのか?」
「講演会なんて、どうせ聞いてもつまんないし」
「イシュヴァールの英雄でも?」
 ムスッとして言うハボックに男が尋ねる。ハボックはうんざりとしたため息をついて答えた。
「イシュヴァールの英雄だろうが言うことは同じっしょ?“この国の未来は君たちにかかっている”“この国を変えるのは君たちだ”────ウソばっか」
「ほう?どうしてそう思うんだ?」
 面白そうに尋ねる男にハボックは「だって」と答える。
「この士官学校だって教官に意見しようものなら生意気だってブン殴られるんスよ?軍なんてもっと縦社会っしょ。こうしたい、こうした方がきっと良くなるって思ったってオレ達の意見なんて聞いてもらえる訳ないじゃないっスか」
 この二年半あまり、士官学校で経験したあれこれは夢と希望を抱いて軍人になろうとしたハボックの期待を大きく裏切るものだった。
「もう、軍人になるのなんてやめて故郷の雑貨屋継ごうかなぁ……」
 ハボックはため息混じりに言って壁に背を預ける。そうすれば男はハボックと並んで腰を下ろして言った。
「それじゃあもし、お前の意見に耳を貸してくれる上官がいたらどうする?一緒にこの国の未来を変えようと言う上官がいたら」
「えー、そりゃあもしそんな人がいたら絶対ついて行っちゃうっスけど」
「例えばどんな事を考えてる?お前が軍人になったらまず何をしたい?」
「オレが軍人になったら……」
 楽しそうに黒曜石を輝かせてそう尋ねてくる男に、ハボックは小首を傾げて考える。思いつくまま口にした考えに賛同したりちょっとした修正を加えたりする男と、気がつけばすっかり意気投合して話し続けて、そうして。
 後になってそれがすっぽかした講演会の当の講演者、焔の錬金術師ロイ・マスタングだと知った時は本当にびっくりした。それでもその後幾度となく会って話をするたび惹かれていって、絶対にロイについていくのだと決めて。


「た……さっ」
 頭上に腕を縛られた不自由な体勢でハボックは必死にもがく。弱々しい抵抗を鼻で笑って圧し掛かるブラッドレイをハボックは涙に霞む瞳で見上げた。
(ああ)
(オレは)
(オレはただ)
(大佐の背中を護りたくて)
(ずっとそれだけを考えて)
 気がつけば随分と遠いところへ来てしまった。
(なんでこんな事になっちゃったんだろう)
(もっと……もっと早く大佐の望むものに気がついてたら)
(馬鹿だ、オレは)
(大佐……たいさ……)
 初めて出会った時のロイの黒曜石を思いながら、ハボックは空色の瞳をそっと閉じた。


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