セレスタの涙、オニキスの誓い  第百十九章


 コンコンと軽いノックの音に答える声を待ってハボックはゆっくりと扉を開ける。一歩中に踏み込んだハボックは間接照明だけに照らされた薄暗い室内の様子に、軽いデジャヴに襲われた。
「あ……」
 ハボックの脳裏にあの日のセントラルでの出来事が蘇る。カツンと響いた靴音にハッとして音のした方を見れば、あの日と同じようにブラッドレイが立っていた。
「よく来てくれた、少尉」
「サー……」
 あの時はただただ緊張感と僅かな疑問だけを抱えて見つめた隻眼をハボックは見つめる。気がつけば体が小刻みに震えていて、ハボックはキュッと唇を噛んで一つ瞬くと改めてブラッドレイを見た。
「お招きに預かり光栄です、サー」
 ハボックは言って軽く頭を下げる。ブラッドレイはそれに鷹揚に頷くと窓辺に用意されたテーブルについた。
「座りたまえ」
「失礼します」
 着席を促されハボックはブラッドレイと向かい合って腰を下ろす。真っ直ぐに見つめてくる空色にブラッドレイは笑みを浮かべて言った。
「期待以上に回復しているようだ。安心したよ、少尉」
「ありがとうございます。今日はお相手頂いて、恥ずかしいところをお見せしないよう必死でした」
 律儀に答えるハボックの様子にブラッドレイは楽しそうな笑みを浮かべる。テーブルに置かれたベルを鳴らせば、現れた給仕が二人のグラスにワインを注いだ。
「無事復帰を果たしたことに」
「ありがとうございます、サー」
 グラスを掲げるブラッドレイに答えて、ハボックはワインに口を付ける。相変わらず旨いとは思えぬ酒を喉に流し込んでハボックはブラッドレイを見た。
「そろそろ訓練期間も終わりだろう?どうだね、私のところへ来る気はないか?君の腕前なら安心して背中を任せられるんだが」
 とても本気とは思えぬ言葉をブラッドレイが口にする。次々と運ばれてくる皿の上の肉を切り分け口に運ぶブラッドレイを見つめてハボックは答えた。
「勿体無いお言葉ありがとうございます、サー。ですがオレはマスタング大佐を護ると決めているので」
 出された皿には手を出さずきっぱりと答えるハボックをブラッドレイは見る。その隻眼を細めてククッと笑った権力者は口元をナフキンで拭って言った。
「マスタングを護る?どうやって?」
 ブラッドレイは席を立ちゆっくりとテーブルを回ってハボックに近づいていく。ハボックはブラッドレイの動きを目で追いながら答えた。
「先程訓練でお見せした戦闘技術とこれまで積み上げてきた経験と知恵で」
「それと私が直々に教えてやった男を悦ばせるテクニックで、だろう?」
 ブラッドレイはハボックのすぐ側に立ってそう付け足す。
「君が体を差し出せば悦ぶ輩も多いだろう。君は君が考えている以上に男心をそそる。戦場でもそうだったのではないかね?」
 ブラッドレイの言葉にハボックの体がビクリと震える。僅かに寄せられた眉根を見て、ブラッドレイはクスクスと笑った。
「マスタングを護る、か。ならば私がもう一度体を差し出せと言ったら?なにも知らない君に一から教え込むのも楽しかったが、色々経験を積んだ君ならまた別の楽しみを与えてくれるのだろう?ハボック少尉」
 ブラッドレイは言ってハボックの腕を掴む。ハッと身を強張らせるハボックの体をグイと引き上げて、ブラッドレイは言った。
「マスタングのために私を愉しませてくれ、少尉。奴の身を護りたいのだろう?」
「サー」
 そう言うブラッドレイをハボックは目を見開いて見つめる。
「サー、オレは」
 答えようと口を開きかけたハボックの脳裏にロイの言葉が蘇った。
『お前は道具なんかじゃない!私はお前を一人の人間として側にいて力を貸して欲しい、支えて欲しいと思っている。判っているのか、ハボック────私はお前を愛してるんだぞ!』
(大佐)
(大佐、オレは)
「さあ、ハボック少尉」
 グイと椅子から引き上げたハボックに顔を寄せてブラッドレイが囁く。
「サー」
 酷薄な光をたたえる隻眼を見つめて、ハボックは口を開いた。


「う……」
 床に倒れたロイの唇から呻き声が零れる。ゆっくりと目を開いたロイは、痛む首筋を手で押さえてのろのろと身を起こした。
「私は……」
 咄嗟に状況を思い出せず、ロイはゆるゆると首を振る。数度瞬きした次の瞬間、ハッとして辺りを見回した。
「ハボックっ?!」
 呼んだ名に答える相手はもうどこにもいない事に気づいて、ロイの顔から血の気が引く。あれから一体どれくらい気を失っていたのか、その間にハボックがどうしているかと思えばロイの体がワナワナと震え唇から浅い呼吸が零れた。
「ハボック!」
 バンッと乱暴に執務室の扉を開けてロイは大部屋を見回す。終業時間を疾うに過ぎたそこには誰の姿もなく、ロイは司令室を飛び出すと随分と人が減った司令部の廊下を駆け抜けた。
「くそッ!なにをやっているんだ、私はッ!」
 幾ら不意をつかれたとはいえ昏倒してハボックを見失うとは。今ハボックがどこにいてなにをしているか、浮かんだ考えにロイはゾクリと身を震わせた。
「頼む、ハボック!馬鹿なことはするな……ッッ!!」
 低く呻いたロイは司令部を飛び出すとハボックをその手に取り戻すために夜の道をひた駆けていった。


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