セレスタの涙、オニキスの誓い  第百十一章


 ブラウンの執務室の扉を閉めてハボックは大きく息を吐き出す。一つ瞬きして闘技場に戻ろうと歩きだしたハボックは、踏み出した足が震えていることに気づいた。
「くそ……ッ」
 これまで何度もつまづいて遠回りして、それでも何とか前に進めるようになったと思った矢先のブラッドレイの来訪は、ハボックに頭を殴られたような衝撃を与えた。今度こそもう大丈夫と、もう二度と迷うことも立ち止まることもしないと決めた筈なのにブラッドレイがやってくると聞いただけで足が竦んでしまう己に、ハボックはギリと唇を噛み締めた。
「自分で言ったろ?今逃げたらもう二度と立ち向かえないって」
 ブラウンに言ったことは紛れもない本心だ。今ここでブラッドレイに会わずに逃げたら、この先どれだけ望もうとロイの背中を護ることなど出来はしないのだ。それでも。
「しっかりしろッ、ジャン!」
 体の奥底に植え付けられた恐怖がゆっくりと頭をもたげようとするのを、ハボックは必死になって押さえ込もうとしていた。


「ハボック、戻ってきたのか────って、お前、大丈夫か?」
 足音に振り向いたリンチはハボックの顔を見て目を丸くする。
「真っ青だぞ、どこか具合が悪いんじゃないのか?」
「平気。なんともない」
「でも」
「本当になんともないッ!」
 心配して伸ばしてくるリンチの手をハボックは思い切り振り払う。驚いて見つめてくるリンチを見開いた瞳で見返したハボックは、視線をさまよわせて言った。
「ごめん……でも、本当になんともないから」
 サンキューと無理矢理に笑みを作って言えばリンチがじっと見つめてくる。気遣う色を見せるその瞳にハボックは一瞬目を見開き、それから今度は無理矢理でない笑みを浮かべた。
「ごめん。本当に大丈夫。ありがと、リンチ」
「────ならいいけど」
 笑みを浮かべるハボックにリンチはそう言って背を向ける。いつ訓練が始まってもいいよう、ストレッチを続けるリンチを見つめてハボックは思った。
(あの時ようやっと自分の進むべき道に戻れたんだ。馬鹿なことをしでかすところを止めて貰って、大佐と向き合って、やっともう一度歩き出したんだから)
 そう思いながらハボックは闘技場の扉に目をやる。
(大総統に会うのは怖い。でも、ここが正念場だ。オレは大佐の背を護りたい、大佐についていきたい、だから)
 と、ハボックは一度目を閉じて、それからゆっくりと開いた。
(絶対に逃げない)
 強く心に誓って、ハボックはブラッドレイの姿が闘技場の入口に現れるのを待った。


 車を降りたロイはイーストシティ駅の駅舎の中へと入っていく。プラットフォームに出ると、列車が現れる筈の線路の先へと視線を向けた。
「ブラッドレイ大総統」
 その名を口にするだけで体中が怒りの焔に包まれたような気がする。今すぐにもブラッドレイを己の焔で燃やし尽くしてやりたいと思うと同時に、今はその時ではないと冷静に判断する自分もいた。
「大佐、列車は定刻通りに到着するそうです」
「判った」
 背後で足音がしたと思うと聞こえたホークアイの声にロイは頷く。暫く待てば線路が小刻みに震え始め、遠くに列車の影が見えてきた。
「来たな、ブラッドレイ」
 そう呟いたロイに答えるように列車が汽笛を鳴らす。どんどんと近づいてきた列車は大きな音を立ててホームへと入ってきた。ロイの目の前を車両が幾つか過ぎてやがてゆっくりと止まる。ホークアイを従えて、ロイはブラッドレイが姿を現すのを待った。


 速度が落ちた列車がホームに滑り込みやがてゆっくりと止まる。目を閉じて座っていたブラッドレイは、コンパートメントの外からかかった声にその隻眼を開いて窓の外を見た。
「着いたか」
 ブラッドレイは徐に立ち上がり扉に向かう。ガラリと横開きの扉を開けば、車掌と秘書官の女性が軽く頭を下げた。
「お疲れさまでした、閣下」
 それに鷹揚に頷いてブラッドレイは出口へと向かう。開いた扉からホームに足を下ろしたブラッドレイは、丁度正面に立っている将校の姿を見つけて隻眼を僅かに見開いた。
「わざわざ出迎えてくれるとは……。色々忙しかったのではないかね?マスタング大佐」
「手違いでこちらに連絡が入るのが遅れたようですが、何とか間に合いました。遠路はるばるお疲れさまです、閣下」
 無表情に嫌みともとれる言葉を口にするロイにブラッドレイは笑みを浮かべる。ゆっくりと歩き出すと付き従ってくるロイに言った。
「新兵の訓練に参加したいと伝えておいたが、特に問題はないだろう?」
「はい。ですが、ブラウン中佐が用意を調えている最中で、少しお時間を頂きたいと申しております」
「用意?普段の訓練に参加するのが目的だ。別に用意などいらん」
「お言葉ですが閣下、訓練の都合というものもありますので」
「有り体に言えば迷惑ということかね?“君ら”にとって」
 足を止め肩越しに見つめれば睨むように見返してくるロイにブラッドレイは低く笑う。
「まあいい。とりあえずは司令部へ向かうとしよう。それまで迷惑などとはいわんだろう?マスタング大佐」
 ブラッドレイはそう言うとゆっくりと歩き出す。つき従うロイの足音を聞きながら共に駅舎を出ると車に乗り込み司令部へ向かった。


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