セレスタの涙、オニキスの誓い  第百三章


 家を出てハボックは通りを歩いていく。暫く歩いて店が建ち並ぶ界隈まで来ると辺りを見回した。
 夕刻にはまだ少し時間がある通りは昼の装いだ。行き交う人々の中には女性や子供、お年寄りも大勢いて、明るく健康的な空気に満たされていた。ハボックはそんな街の様子に途方に暮れたように立ち尽くす。すぐ側をキャアと楽しげな声を上げて子供が駆けていくのを、ハボックは追いかけるようにゆっくりと歩きだした。子供が駆けていった先は公園になっている。入口に立てば川を模して作られた流れが陽の光にキラキラと輝いているのが見えて、ハボックは不意に蘇った記憶に目を見開いた。
 ロイと一緒に川辺の遊歩道を歩いたのはいつのことだったろう。降り注ぐ月の光をキラキラとその水面に映す川の畔、流れる星を見上げたのは。そして────。
 その記憶の続く先を思い出したくなくて、ハボックは逃げるように公園を後にした。


 ふらふらとハボックは通りを歩いていく。賑わう界隈を抜けて歩いていくと、昼間でもあまり品のよくない連中が集まる辺りへとやってきていた。ハボックは手近の店の扉を開けて中へと入る。背後で扉が閉まれば窓を塗り潰した店内は真っ暗闇のようで、ハボックは動くことが出来ずに入口のところで立ち止まった。それでも目が慣れてくれば、そこが真っ暗闇などではないことが判ってくる。店内には壁の所々にかなり明度を落とした照明がつけられており、何とか転ばない程度には足下を照らしていた。まだ明るいうちだというのに客はそこそこ入っていて、店の中は客たちが交わす言葉の低い騒めきと酒と煙草の香りに満ちている。ハボックはゆっくりと足を進めると壁際のテーブル席に腰を下ろした。寄ってきたウェイターにビールを注文してハボックは壁に身を寄せる。そっと目を閉じたハボックが人が近づいてくる気配にハッとして目を開けると、ウェイターがビールのグラスを置いていったところだった。
「…………」
 ざわざわとした騒めきと客たちの気配が圧迫感を持ってハボックに押し寄せてくる。ハボックは乱暴にグラスを掴むと一気にビールを飲み干した。
「くそ……ッ」
 ただそこに大勢の人がいるというそれだけで息が上手く出来なくなる。すぐ側を通り過ぎた男のジャケットの裾が肌を掠めて、ハボックは上がりそうになった悲鳴を手のひらを当てて押さえ込んだ。
(チクショウ……ッ、なんで……ッ)
 克服したと思っていた恐怖がダグラスとの一件で元の木阿弥と化している。慣れている、大丈夫だと幾ら心の内で繰り返しても体が強張り呼吸が忙しなくなるのを止められず、ハボックは己の弱さに唇をギリギリと噛み締めて目を閉じた。


 時折小刻みに震える体を己の腕で抱き締めて、そうやって一体どれほどそこにいたのだろう。ゆっくりと目を開けてハボックは店の中を見回す。いつの間にか店内は大勢の客で一杯になっており、ハボックは震える足を叱咤して立ち上がると支払いをテーブルに置いて店を出た。
 扉を開ければ太陽はとっくに沈んでいた。ハボックはどこへ行くともなしに歩き出す。通りには店に客を呼び込もうとする男や女が大勢出ていて、ハボックにもひっきりなしに声がかかった。身を縮めてかかる声を拒むように歩いていたハボックは、不意に前に立った影に俯けていた顔を上げた。
「ハボックじゃねぇか」
「……リンチ」
 それが一緒に訓練している新兵の一人、リンチだと気づいてハボックは目を見開く。リンチはハボックをじろじろと見て言った。
「体調不良で今日は帰ったって聞いたけど、もう大丈夫なのか?」
「あ……うん」
 聞かれてハボックは曖昧に答える。何か言おうとして口を開きかけたリンチは、呼ぶ声に軽く手を挙げてからハボックを見た。
「仲間と飲むところなんだ。一緒にどうだ?」
「えっ?」
 突然の誘いにハボックは驚きの声を上げたもののそれ以上言葉が出てこない。そんなハボックの腕を掴むと、リンチは少し先で待つ友人たちの方へと歩きだした。
「あ……っ、待っ……離してッ」
 グイグイと有無を言わさず引っ張る強い力に、ハボックは青褪めて声を上げる。だが、リンチの手を振り解く事が出来ないまま、ハボックは彼らを待つ男たちの所へと連れて行かれた。
「コイツ、ハボックっていうんだ。一緒にいいだろう?」
 そう言うリンチに頷く男たちに囲まれるようにしてハボックは歩いていく。通りを少しいった所にある階段を下って、地下のクラブへと入っていった。
「マスター、奥使わせて貰うぜ」
 行きつけの店なのだろう、慣れた様子で男の一人がカウンターの中にいるバーテンに声をかける。了解と手を上げるのに頷いて、男たちは店の奥にある個室に入った。テーブルを囲むように配置されたソファー席に、男たちは思い思いに腰を下ろす。ハボックもリンチと共に腰を下ろせば、すぐさま酒のグラスが運ばれてきた。
「ほら」
「……ありがとう」
 差し出されたグラスをハボックは受け取ってギュッと握り締める。八人もの男が入れば個室はいっぱいで、ハボックは息苦しさに浅い呼吸を繰り返した。
「大丈夫か?」
 覗き込んでくるリンチにハボックは頷いてグラスに口をつける。コクコクと飲み干せばすぐさま新しいグラスを差し出され、ハボックは続けざまにグラスを空けた。周りの男たちもハボックに負けず劣らずのスピードで杯を開けていく。仲間同士の気楽さも相まって、個室の中は忽ち酔っぱらった男たちの気の置けない賑やかな空間へと変わっていった。そんな中、急激な酔いに曇った目でハボックは飲んで大声で話す男たちを見つめる。薄暗い部屋の中、飲んで騒ぐ男たちの姿が戦場の狭いテントにひしめく男たちの姿と重なった時、ハボックの唇からスルリと言葉が飛び出した。
「……オレとヤらないか?」
「「えっ?」」
 唐突な言葉にリンチとすぐ側で飲んでいた男が驚いてハボックを見た。
「ハボック、どうしたんだよ、いきなり」
「そう言う気分なんだよ。────なあ、オレとヤろうぜ?!」
 早口にリンチに答えたハボックは声を張り上げて部屋の中を見回した。


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