セレスタの涙、オニキスの誓い  第百二章


 家に戻ったハボックは鍵を開けて中に入ると二階の自室に向かう。軍服を脱ぎ捨てボクサーパンツ一枚になったハボックは、洗面所で水を出した蛇口の下に頭を突っ込んだ。ザアザアと頭に水を被ればその冷たさにホッと息を吐く。水を止め、顔を上げて鏡に映る己の顔をじっと見つめた。
「これ以上立ち止まってらんない……判ってんだろ?」
 そうでなくともアエルゴから戻った後、己の弱さ故に体調を崩して職務に就けなかった。ロイの元に戻って、迷いはあったがそれでもロイを護ると決めた。漸くまともに訓練を再開することが出来るようになったというのに、これ以上ぐずぐずしていたらたった一つ心に決めた望みすら果たす事が出来なくなってしまう。
「大佐はどんどん前に進んでるんだ。ぐずぐずしてたら追いつけなくなっちゃう……ッ」
 もともとロイが軍人として既に名を馳せている時、自分はまだ学生だった。これ以上歩みを止めるようなことになれば二度と追いつけなくなるだろう。
「今のオレにはこれしかないんだから……ッ」
 心の奥底に封じ込めた想いをこの先表に出すつもりはない。そのことでたとえロイがなんと思おうと自分に残された道はロイの背を護ることだけ。そのためにはどんな手段も厭う気はなかった。
「オレは……」
 鏡に映る己の顔を睨むように見つめたハボックはキュッと唇を噛むと洗面所を出た。私服に着替え部屋を後にする。パタンと玄関が閉まる音が聞こえた後には、ハボックの心の乱れを表すように脱ぎ捨てられた軍服が残されていた。


 ガタンと乱暴に椅子を蹴立てて立ち上がれば会議の出席者たちが一斉にロイを見る。司会役を務めていた事務官が驚いた様子でロイを見て言った。
「マスタング大佐、なにかありましたか?」
「終了時間だ。私はこれで帰らせて貰う」
「ちょ……お待ち下さいッ、マスタング大佐!」
 一方的に宣言して扉に向かうロイに事務官は慌ててその前に立ちはだかる。ムッと眉を顰めるロイに、職務に忠実な事務官は言った。
「まだ会議は終わっておりません。大佐に決定を仰ぎたい案件もございますので────」
「私の意見は既に言ったとおりだ。後は貴官らで決めてくれたらいい」
「ですが、マスタング大佐。会議の延長があるかもしれないと言うことはあらかじめお伝えしております。ですから最後までご出席賜りたいと」
 必死に言い募る事務官はロイにギロリと睨まれて言葉を飲み込む。何も言えないままそれでもロイの行く手を塞いでいればロイが低い声で言った。
「どけ。燃やされたいか」
 その言葉に事務官はロイの手に視線を向ける。その手に填められた発火布を見て、事務官はよろけるように道を開けた。事務官にも他の出席者にも視線を向けることなく、ロイは会議室を後にした。


「大佐」
「途中で抜けた。後で文句を言われるかもしれんが」
「こちらで対処しておきます」
「すまん」
 ガチャッと扉が開いたと思うともの凄い勢いで司令室に入ってきたロイにホークアイは声をかける。恐らくは長引くであろう会議をロイが途中で抜けてくるのは判っていたから、ホークアイは対処しておくとだけ答えて、ロイが会議に出席中に回されてきた急ぎの書類を手にロイの後について執務室に入った。
「寄越せ」
 余計なことは言わずにロイは椅子に腰を下ろしホークアイに向かって手を差し出す。引っ手繰るようにホークアイから書類を受け取ると、ロイは手早く書類に目を通しサインを認めた。
「車を」
「玄関につけてあります」
 必要最低限の書類に目を通したロイが立ち上がりながら言えば、ホークアイから答えが返る。こちらから言わずとも望む形に整えてくれるホークアイの手際の良さに、ロイは感謝の目を向けた。
「ありがとう、中尉」
「私にはこれくらいしか出来ませんから」
 言えばそう答えるホークアイに笑みを返して、ロイは執務室を出て司令室を後にする。走り出したい気持ちを堪えて正面玄関に出るとすぐ前につけられた車に乗り込んだ。
「自宅へ。急いでくれ」
 本音を言えば運転手に運転を任せず、自分でアクセルを踏み込みたい。どんな運転も今のロイにはのんびりと走っているようにしか思えず、ロイは一刻も早く車が家に着くのを待って窓の外を流れる景色を睨むように見つめていた。


 家に着いた車から飛び出すと、鍵を開けるのももどかしくロイは乱暴に玄関の扉を開く。
「ハボック!」
 もしかしたら休んでいるかもしれないと言う考えが浮かばないではなかったが、それでも声を張り上げずにはいられず、ロイは大声でハボックを呼びながら二階へと階段を上がった。
「ハボック────開けるぞ」
 それでも一呼吸待ってから寝室の扉を開ける。部屋の中に一歩踏み込んだロイは、脱ぎ捨てられた軍服を見てグッと歯を食いしばった。
「くそッ、どこへ……ッ」
 ロイはすぐさま踵を返し階段を駆け降りる。玄関を飛び出しハボックの姿を探して辺りを見回しながら足早に歩けば、不意にブラッドレイの言葉が頭に浮かんだ。
『いつだって彼は頑張っていた。それはもう切ないくらいに』
『その頑張りが余計な災難を招かんよう、気をつけてやることだ』
「ハボック……」
 いつもいつも、ハボックはロイの為にと必死だった。己の事などこれっぱかりも省みず、ただひたすらロイの為だけに。ブラッドレイの言うとおり、それはもう切ないばかりとしか言いようがないほどに。
「頼むから馬鹿な真似はするな、ハボック……ッ」
 ロイは沸き上がる不安を押さえ込んで、ハボックの姿を探し続けた。


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