セレスタの涙、オニキスの誓い  第百一章


 ロッカールームの扉を開ければ訓練に向かおうとする男達の熱気がハボックに向けて押し寄せてくる。その熱気に押し返されるように半歩下がったハボックは、ギュッと手を握り締めると中へ入った。チラチラと辺りを窺ったがダグラスの姿はない。「心配しなくていい」と言ったブラウンの言葉通り、とりあえずあの男の事は考えなくていいのだとハボックはホッと息を吐いた。手早く着替えを済ませ、格闘場へと向かう。いつものように新兵達に混ざって整列したハボックは、息苦しさを感じて手のひらで口元を覆った。
(そんな)
(そんなはずはない)
 手のひらで覆ったその下で、ハボックは上手く息が継げずに大きく口を開く。ハアハアと何とか空気を取り込もうとしていれば、不意に肩を叩かれてハボックは飛び上がった。
「────そんなにびっくりすることないだろ」
「あ……」
 過敏なほどのハボックの反応に肩を叩いた男、リンチが目を丸くする。リンチはハボックをじっと見つめて言った。
「顔色がよくないな、大丈夫かよ」
「平気……。──なに?」
 肩を叩いてきたのだから何か用事があるのだろう。そう思って尋ねれば、リンチが思い出したように「ああ」と言った。
「解けてるぜ」
 そう言ってリンチが指さす先を見れば軍靴の紐が解けている。ハボックはホッと息を吐き出すと小声で礼を言い、腰を落として紐を結び直した。
(大丈夫、なんともない)
 並んで列に並ぶリンチから少し離れてハボックは自分に言い聞かせるように思う。やがて時間になりブラウンの指示の下訓練が始まった。ストレッチで十分体を解した後は組み手の訓練で、リンチがハボックを振り向いて言った。
「組み手だってよ。いいか?ハボック」
「あ、ああ」
 ハボックが頷けば早速向き合ったリンチが技を仕掛けてくる。それを何とか凌ぎながら、ハボックは急速に視野が狭まり息が出来なくなっていくのを感じていた。
(平気だ)
(もう、平気な筈なんだ)
(普通に訓練出来る)
(あんな事でまた昔に逆戻りなんて)
(そんなこと有り得ない。あんなの、オレは慣れて)
(慣れてる筈、なんだ、から────)
「う……うわああああッッ!!」
 狭まった視野を己を見つめるリンツの瞳だけが占めて、ハボックの唇から悲鳴が迸る。それと同時にプツリと途切れた意識が闇に落ちていった。


 ハアハアと息を弾ませてハボックは背後に迫るものから逃れようと必死に足を動かす。だが、幾ら動かしても体は前に進まず、伸びてきた手がハボックの足を手を肩を掴み、その場に引き倒した。
「嫌だッッ!!」
 圧し掛かってくる相手を押し返し、ハボックは必死にもがく。だが、そんな抵抗も空しく、伸びてくる腕がハボックの自由を奪い服を剥ぎ取り長い脚を大きく開いた。
「嫌ッ!やだッッ!!」
 大きく開かされた脚の間に体をねじ込んだ相手の凶暴に滾った牡が蕾に押し当てられる。逃れようともがくハボックを嘲笑うように押し当てられた牡が蕾を割り開き中へと押し入ってきた。


「嫌だァッッ!!」
 大声を上げてハボックは飛び起きる。ハアハアと息を弾ませたハボックは、そこが白いカーテンで仕切られたベッドの上だと気づいた。
「オレ……オレは……」
「おお、気づいたか、少尉」
 状況が判らずにいればシャッとカーテンが引き開けられて初老の軍医が顔を出す。ギクリとして身を強張らせるハボックに、軍医は人のいい笑みを浮かべて言った。
「訓練中に貧血を起こして倒れたんだ。全く、若いからと言って無理はいかんぞ、無理は」
 軍医は言って凍り付いて目を見開くハボックの腕を取り脈を計る。
「心拍数が上がっとるな。熱もあるようだ。今日はもう帰って休んだ方がいい。ブラウン中佐には私の方から言っておくから」
「だめです、オレ、休んでる暇なんてないっス。訓練戻らないとッ」
「少尉」
 軍医の言葉にハッとしてベッドから降りようとするハボックを、軍医が押しとどめる。不安そうに見上げてくるハボックを見下ろして軍医は首を振った。
「少尉。今言ったばかりだろう?無理はいかん。体調が悪いときは休むのが結局は一番の早道だ。少尉、今日は帰って休むんだ。いいな?」
「……はい」
 強い軍医の言葉にハボックは頷いて項垂れる。ゆっくりとベッドから立ち上がり、軍医に一礼して医務室を出た。
(どうしよう)
(このままじゃまた訓練遅れちゃう)
(このままにしておけない)
(何とかしなきゃ)
 何とか体も心も落ち着いて、これで漸く訓練に望めるようになったと思ったばかりなのだ。
(こんなところで立ち止まってなんていられない)
 ハボックはキュッと唇を噛んで廊下を歩いていった。


「え?貧血」
「はい。軍医の話では大したことはなさそうですが、今日は大事をとって家に返しました」
 会議から戻る途中、丁度よかったとブラウンに呼び止められたロイは、ハボックが訓練中に貧血で倒れたと聞き目を見開く。軍医の診断も受けたと聞けばとりあえずは心配ないと思ったものの、ロイは知らせてくれたブラウンに礼を言って急いで司令室へ向かった。
「中尉、今日の予定はあと何がある?」
「この後もう二件会議が入っています。午後一番の会議は出席頂きませんといけません」
 扉を開けるなり尋ねるロイの質問の意味を的確に読みとってホークアイが答える。それに思い切り顔を顰めるロイを宥めるようにホークアイがロイを呼んだ。
「判っている。だがだらだらと時間を過ぎるようなら途中で退席する。それ以外急ぎの書類は?」
「はい、三件ほど」
 執務室に入っていくロイの後に続いて入ったホークアイは、そう答えて未決済の書類の山の中から書類を取り出し椅子に座ったロイの前に差し出す。急いで目を通しながら、ロイは奇妙な焦燥感に駆られていた。


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