セレスタの涙、オニキスの誓い  第百章


 ロイはハボックの手首を掴んだまま司令部の廊下を歩いていく。足早に玄関を潜り抜け警備兵に車を回すよう視線で求めた。チラリとハボックを見れば、大きく見開いた瞳で正面を見据えている。車が来るまでの僅かな時間もロイはハボックの手首を離さずにいたが、ハボックがそれに気づいているのかは判らなかった。
 警備兵の運転する車が目の前に停まると、ロイは自分でドアを開けハボックを押し込みその隣に体を滑り込ませる。「自宅へ」と短く告げれば走り出す車の振動に身を預けて、ロイはハボックを見た。
「ハボック」
 そう呼びかけてもハボックは身を強張らせ見開いた瞳で正面を見据えたままだ。ロイは小さく息を吐き出すと、一刻も早く車が着くのを待った。


 車が自宅に着くと、ハボックを連れて車を降りたロイは短いステップを上がり玄関を入る。そのまま直接浴室へハボックを連れていくと漸く手を離した。
「大丈夫か?ハボック」
 そう声をかけて間近からハボックの瞳を覗き込めば、ハボックの体がビクリと震える。見開いた瞳でロイを見つめたハボックは少ししてから「はい」と短く答えた。
「よし、それならシャワーを浴びられるな?私は何か飲み物を用意しておくから」
 にっこりと笑って殊更なんでもないように言いハボックを残して浴室を出た。そのまま暫く待っていると中からシャワーの音が聞こえてくる。ロイはホッと息を吐いてキッチンに向かった。少し迷ってホットレモネードを作る。丁度作り終えた頃、カチャリと扉の開く音がした。
 ロイはホットレモネードのグラスをトレイに乗せリビングへ行く。するとハボックがソファーに座るでもなく部屋の真ん中に突っ立っているのが目に入った。
「座ったらどうだ?ハボック」
 ロイはトレイをテーブルに置いてハボックに言う。ロイの声が聞こえているのかいないのか、身動きしないハボックの腕をロイは引いた。
「ッッ」
 その瞬間、ハボックの体が大きく震える。その過敏なまでの反応に驚きながらも、ロイは表情には出さず笑みを浮かべて言った。
「ホットレモネードを淹れたんだ。体が暖まって落ち着くぞ」
 ロイはハボックの腕を引いてソファーに座らせレモネードのカップを差し出す。両手で包み込むようにグラスを持って、ハボックはレモネードを一口飲んだ。
「旨い、っス」
 ハボックは言って、コクコクとレモネードを喉に流し込む。熱いだろうレモネードをほぼ一気に飲み干して、ハボックは立ち上がった。
「寝ても、いいっスか?」
「あ、ああ。メシはいいのか?」
「いりません」
 無表情にハボックは答えてリビングから出ていこうとする。扉のところで足を止めたハボックは、振り向いて言った。
「レモネード、ありがとうございました」
「ハボック」
 表情の変わらないハボックに、ロイは俄に不安を覚えて立ち上がる。
「大丈夫か?」
「平気っス、あんなの────慣れてるっスから」
 その言葉に目を見開いたロイが次の言葉を探せないでいる内に、ハボックはリビングを出ていってしまった。


 その夜はベッドに入っても眠りが訪れず、ロイはたびたびベッドを出てはハボックの様子を見に行った。魘されたりしていないかというロイの心配に反して、ハボックは静かに眠っていた。
「ハボック……」
 慣れている、というハボックの言葉を思い出せば胸が痛い。改めてハボックの傷の深さを思い知らされたようで、ロイは気の利いた言葉一つ出てこなかった己を罵倒せずにはいられなかった。


 翌朝になればハボックはいつも通り起きてきて、ロイと一緒に朝食を取った。口数の少ないハボックに何をどう話しかけていいのか、ロイは言葉を探し倦ねてしまう。「ごちそうさま」と立ち上がり食器を片付けようとするハボックを、ロイは咄嗟に手を伸ばし腕を掴んだ。
「ハボック」
「大佐?」
 見つめてくる空色にロイはたまらずその体を抱き締める。ギュッと強く抱き締め、ロイはハボックの耳元に囁いた。
「愛してる、ハボック……愛してるんだ」
「大佐……」
 いっそこのまま誰もハボックを傷つける事の出来ない場所へ連れ去ってしまいたい。そう思いながらきつく抱き締めれば、ハボックがロイの肩に頬を寄せた。
「昨日は……来てくれてありがとうございました。オレなら大丈夫っスから」
「ハボック……愛しているよ」
 囁く声に他に言葉を見つけられず、ロイは何度も繰り返した。


 ロイの車に乗せて貰ってハボックは司令部に向かう。いつものように少し前で下りて司令部に入るとブラウンのところへ向かった。
「ハボック」
 ノックで入室の許可を取り中へ入ればブラウンが腰を上げる。執務机の少し前で立ち止まるハボックを見て、ブラウンは尋ねた。
「大丈夫か?」
「はい。昨日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 言ってハボックは深々と頭を下げる。顔を上げればブラウンはハボックを見て言った。
「ダグラスのことは心配しなくていい。お前は訓練に集中しろ」
「ありがとうございます、サー」
 ピッと敬礼してハボックは部屋を出る。大きく息を吐き出したハボックは、ギュッと手を握り締め訓練に参加しようとロッカールームに向かって歩いていった。


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