Alucard 5


「ああ疲れた……」
 アパートの鍵を開けて中に入るとハボックは閉めた扉に寄りかかる。一日中厨房に立って数え切れないほどの人数分の食事を作り続けるのは、若いハボックにとってもかなりの重労働であった。ハボックは緩く首を振ると扉に預けていた体を起こし中へと入っていく。一日中締め切っていた部屋の中は熱気がこもって息苦しいほどだった。
「あっつー……蒸し風呂かよ、まったく」
 ハボックはそう呟いて窓という窓を開けて回る。少しして部屋の中の熱気が抜けると今度は窓を閉じてエアコンをつけた。
「やれやれ」
 ドサリとソファーに腰を下ろし懐から煙草を取り出す。仕事中は吸うことが出来ないそれに火を点け深く吸い込めば、漸く人心地ついた気がした。そのままたっぷり二本分、吸い終わるまでソファーに座っていたハボックは、煙草を灰皿に押しつけゆっくりと立ち上がる。一日の汚れを落とすためにシャワールームに行こうとしたハボックは、部屋の片隅に置かれた電話に目を留めた。
 両親の墓参りに行った墓地で偶然出会った黒髪の男。会ったその瞬間まるで魂に焼き付いてしまったかのように彼の黒曜石の瞳が忘れられなくなった。勤め先のレストランに食べに来てくれた彼に是非また来てくれと言えば。
『こちらにくる機会はないが、君のパスタはまた食べたい。もしよければ個人的に作って貰うわけにはいかないだろうか』
 そんな風に言われて連絡先にと家の電話番号を教えたのはもうひと月も前の事だ。ハボックは鳴らない電話を見つめてそっとため息をつくと無理矢理視線を外してシャワールームに向かった。脱衣所で服を脱ぎ捨て中に入り湯温を調節して湯を出すと頭からシャワーをかかる。柔らかいシャワーの滴に打たれながらハボックは思った。
(社交辞令……だよな、やっぱ。きっとオレがあまりに情けない顔してたからああ言ってくれたんだ)
 こっちにはなかなかくる機会がないと言われて、どうしてあんなにショックだったのか判らない。相手はろくに知りもしない男で、交わした言葉も両手の指で足りてしまうほどだというのに。それでもああ言われてとても嬉しかったし、勤め先から帰ると今日こそは電話がかかってくるかと、風呂もトイレもそれこそ入った途端に飛び出すくらいの時間で済ませていたのだが。
(かかってくるわけないんだから……もう、待つのはやめよう)
 ハボックはそう自分に言い聞かせて殊更ゆっくりとシャワーを浴びる。髪も体もこのひと月の間ではなかったくらい丁寧に洗ってシャワールームを出たハボックの耳に。
「……電話?」
 狭いアパートに鳴り響く電話のベルが聞こえて、ハボックは体を拭くのもそこそこに脱衣所を飛び出した。喧しい音を立てる電話の受話器を引っ掴むと耳に押し当てる。
「も、もしもしっ、お待たせしましたッ」
 そう叫んでしまってからハボックは電話が鳴ったからと言ってそれが待ちわびた相手からのものだとは限らないことに気づいた。不安に怯えながら相手の言葉を待っていたハボックは聞こえてきた声に目を大きく見開いた。
『ハボック?……覚えているだろうか、以前レストランにパスタを食べに行ったマスタングだが……』
「マスタングさんっ?勿論覚えてるっス!電話っ、ずっと待ってて……ッ」
 そんな事を言ってしまってからハボックはハッとして口を噤む。しまったと思うものの一度口に出してしまった言葉は引っ込めようがなく、どうしようとおろおろするハボックの耳に低い笑い声が聞こえた。
『すまなかった、ずっと連絡しようと思ってたんだが色々と忙しくて……。やっと時間がとれそうなんだがこの間の約束、まだ有効かな』
「はいっ、オレでよければ是非作らせてください!」
 勢いよく言うハボックにロイがクスクスと笑う。いつ頃ならと尋ねられ、ハボックはポケットから手帳を取り出して答えた。
「えっと……明明後日(しあさって)なら店が休みなんスけど、マスタングさん、都合悪いっスか?」
『明明後日なら私も都合がいい。出来れば朝早くから来て貰いたいが、前日遅くまで仕事ならしんどいかな』
「そんな事ないっス!朝一番に伺いますッ!」
 噛みつくような勢いでそう答えれば笑いながら家へのルートを説明するロイの声を、ハボックはドキドキしながら聞いていたのだった。


2010/07/24


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