| アフ・チュイ・カック 第九章 |
| 「ただいま」 夕方近くになってカイの店に戻ってきたハボックにカイはにっこりと笑う。 「おお、お疲れ様、ジャン。ロイが待ってるぞ」 「ロイ、怒ってた?」 「機嫌はよくなかったな」 カイの答えにハボックは苦笑した。裏へ回って工具を置いてくると家の中へと入る。 「ロイ」 椅子に座って本を広げていたロイはハボックの声に顔を上げた。本を閉じて飲んでいたカップをキッチンの流しに入れるとハボックを見る。 「帰れるのか?」 「はい。お待たせしました。」 そう言ってハボックは店の方へと回った。ハボックが入ってきたのに気づくと、カイは店の棚から袋を取り出す。 「お疲れ様。必要なもん、ここに入れといたから。また何かあったら遠慮なく言ってくれ」 「ありがとう」 カイの差し出した袋をハボックは受け取るとロイに向かって言った。 「じゃあ帰りましょうか」 「ああ」 「カイおじさん、さよなら」 「ああ、明日も待っとるよ。ロイ、またな」 カイの言葉にハボックはほんの少し笑い、ロイはちらりとカイを見やって二人は店を出る。夕焼けにオレンジ色に染まる道を黙ったまま歩いていった。家に着くとハボックはキッチンへと入っていく。カイの店から持って帰って来たものを冷蔵庫や棚に収めると、お茶を淹れてダイニングの椅子に座っているロイの前に置いた。 「お風呂沸かしますから、夕飯の支度してる間に入ってください」 そう言って浴室へと行こうとするハボックの名をロイは呼ぶ。どうしたのかと振り向くハボックにロイは言った。 「どうしてあのじいさんのところへ行く?あんな酷い事をされてどうして黙ってるんだ」 怒りをその黒い瞳に湛えてハボックを見つめるロイをハボックは暫し黙ったまま見つめていたが、微かに笑うと首を振る。 「店に行く前に言いませんでしたっけ?」 「それだけじゃないだろう」 「別に大した理由じゃないっスから」 そう言って出て行こうとするハボックをロイは引き止めた。その強い視線にハボックはため息をつくと躊躇いがちに答える。 「ベンじいさんには娘がいたんです。とても綺麗な人で、父一人娘一人だったからベンじいさんはとても彼女を大切にしていて…。でも、死んでしまった」 「…どうして?」 ハボックはダイニングの入口に寄りかかると視線を落とした。 「オレのばあちゃんが死んだ理由、言いましたよね?あの事件の時の最初の犠牲者が彼女だった。綺麗な人だったのに、それは酷い殺され方で…。ベンじいさんはその事でばあちゃんを恨んでる。もっと早くばあちゃんが気づいてれば彼女は死なずに済んだのにって」 「…そんなの、八つ当たりだろう。大体お前の祖母だってその事件が元で命を落としたんだろうが。それを恨むなんて、ましてやそれをお前が甘んじて受けるなんて間違ってるだろうっ!」 ガタンと席を立って大声を上げるロイにハボックは視線を上げる。その顔が泣きそうに歪んでいる事に気づいてロイは口を噤んだ。 「彼女が死んだ時、オレ近くにいたんスよ。でも、何にも出来なかった。彼女が闇に喰われるのを見てるしか出来なかった。闇が綺麗な彼女の体を噛み砕いて溶かしていくその音を聞きながら、オレは震えてることしか出来なくて…。今でもその音が忘れられない。喰われてく彼女の恐怖に見開いた目が忘れられないんスよ」 ハボックはそう言うと両手で顔を覆う。 「どうしてあの時、見てるしか出来なかったんだろう。もしあの時何か出来ていたら彼女は死なずに済んだかも知れないのに…っ、もしオレが――」 その時、不意に伸びてきた腕がハボックの頭を抱え込んで引き寄せた。ビックリして息を飲むハボックに、ロイはその金色の頭を抱きしめて言う。 「たとえそこにいたのが誰だろうと彼女を助けることなど出来なかったろう。ましてや10かそこらのお前に何ができたと言うんだ。彼女のことは不幸なことだがそれでお前が自分を責める必要も、あのじじいに恨まれる理由も全くない」 きっぱりとそう言ってロイはギュッとハボックを抱きしめる。その胸の鼓動を聞いて、ハボックは泣きそうに笑うと小さな声で呟いた。 「でも、やっぱりオレは自分が赦せない」 「ハボック!」 ハボックはロイを押しやるとその黒い瞳を見つめる。 「リンは、彼女はとても優しい人だった。その頃にはもう、村の人たちから疎んじられてたオレ達にもいつもよくしてくれて…。オレはリンが大好きだった。」 ハボックは思い出すように宙を見つめながら言葉を続けた。 「リンはね、もうすぐ結婚するはずだったんスよ。でも、オレはリンが結婚してしまうのが凄く淋しかった。結婚して家庭が出来たらきっとリンはオレのことなんて忘れてしまうだろうと思ってた。だからリンにわがままばっかり言って、あの日もリンと喧嘩して飛び出したオレをリンは探しに来てくれたんスよ。そこでリンはアイツに――」 ハボックの告白に言葉もないロイにハボックは微かに笑う。 「最低っスよね、オレ。オレがいなければリンはアイツと会うこともなかった。きっと何も出来ずに腰をぬかしてたオレをリンは恨んで死んでいったでしょう」 「ハボックっ!!」 「オレのせいでリンはっ」 その時、ロイの手が翻ってハボックの頬を思い切り打つ。パンッと乾いた音と共に頬に走った痛みに、ハボックは呆然としてロイを見つめた。 「いい加減にしろっ!リンが死んだことがお前のせいなわけないだろうっ!」 ロイはそう言うとハボックの頬に手を伸ばす。 「リンの死はお前のせいじゃない。だからもう、自分を責めるのはやめろ」 「ロイ…」 ロイはハボックの頬を撫でるとそっとその体を抱き寄せた。 「もう、自分を責めるのはやめるんだ。お前は悪くないんだから」 そう言って優しく背を撫でてくる手にハボックは顔を歪めるとロイの細い体に縋りつく。 「ロイ…ッ、オレは…ッ」 「もういいんだ、お前は悪くないよ、ハボック」 耳元に囁かれる優しい声に、ハボックはもう長いこと流すことが出来なかった涙を零したのだった。 一夜明けて翌日。ロイはカイの家の倉庫から出した工具をザックに詰め込んで肩にかけるハボックを睨みあげる。 「で、結局またあのジジイのところへ行くのか」 キラキラと怒りに輝く黒い瞳に苦笑してハボックは答えた。 「だって、屋根以外にも直しといた方がいいところあったし。ロイはここで待っていて下さい」 ロイは不機嫌そうにハボっクを睨むと言う。 「確かに私が行ったらまた喧嘩になるからな。だが、言っておくが痣の一つでもこさえて帰ってきてみろ、今度こそあのクソジジイ、燃やすからな」 物騒な言葉を紡ぐ綺麗な唇を見つめてハボックはくすくすと笑った。 「私は本気だぞ」 そう言ってロイはハボックの腕を掴む。ハボックは腕に置かれたロイの手に自分のそれを重ねると言った。 「ありがとう、ロイ」 その空色の瞳が、昨日ロイにリンとのことを話したときよりは僅かに色を明るくしていることに気づいてロイは小さく息を吐く。重ねられた手を一度解くと改めてその手をぎゅっと握ってロイは言った。 「ここで待ってるから。さっさと済ませてこい」 「はい」 にっこりと笑う空色にロイの胸に漣が起きる。それが何なのかロイが考える間もなくロイに背を向けて歩き出すハボックを、ロイはハボックの温もりが残る手のひらを握り締めて見送ったのだった。 自室の窓のカーテンの隙間から倉庫の前で話す二人を見ていたミリアは、互いの手を取り合う姿に唇を噛み締めてカーテンを引く。カーテンの布地を後ろ手に握り締めて、ミリアは震える唇から言葉を吐き出した。 「なんなのよ、後からやってきたくせにジャンにあんな色目なんか使って…っ!ジャンもジャンだわっ、私には一度だってあんな顔…っっ!!」 ギュッと瞑った目を開くと怒りにかすれた声で呟く。 「いやよ、絶対に渡すもんですかっ、ジャンは私のものよ…っ」 そう言ったミリアの赤褐色の瞳が昏い光を湛えるのを見たものは誰もいなかった。 |
| → 第十章 |
| 第八章 ← |