アフ・チュイ・カック  第十章


 ロイがハボックと暮らすようになって1ヶ月が過ぎようとしていた。1週間のうち5日ほどはカイの店に行き、そこでなにやら仕事を言付かってはそれをこなしているハボックを、ロイはいつもカイの家のダイニングで待って過ごした。時にはカイの手伝いをすることもあり、そうして夕方になって帰ってきたハボックと肩を並べて家へと戻っていくのだった。
 ロイは2階の自室に当てられている部屋から下りてくるとダイニングへと入る。その日はカイの家に行かず、家のことをして過ごすと言っていたハボックの姿を探したが、目指す金髪は見当たらなかった。どこへ行ったのだろうと思うロイの耳に鳥の囀りのような音が飛び込んできて、ロイは家の裏手に向いた窓から外を覗く。洗濯カゴを抱えたハボックが空に向けて口笛を吹いているのが見えてロイは空を振り仰いだ。するとバサリと音がして綺麗な青みがかった翼を持った鳥が舞い降りてくる。差し伸べたハボックの腕に舞い降りると、その鳥は喉を逸らして鳴き声をあげた。嬉しそうに目を細めて鳥の喉元を撫でるハボックに、鳥はくるくると喉を鳴らす。その様子を目を瞠って見つめていたロイは慌てて勝手口から外へと回った。足音に顔を上げたハボックはロイの姿を認めるとにっこりと笑う。
「おはようございます、ロイ」
「お前、その鳥…」
「ああ、コイツっスか。綺麗な鳥でしょう?」
 ハボックは腕に止まらせたままの鳥の背をそっと撫でながら言った。
「オレがガキの頃からこうして遊びにきてくれるんスよ。オレの大事な友達っス」
 そう言うハボックを驚いたように見つめていたロイはようやく口を開くと言う。
「お前、その鳥がなんだか知っているのか?」
「え?や、オレ、そういうの詳しくないっスから」
 へらっと笑うその顔を呆れたように見つめながらロイは言った。
「それはケッツァールという神鳥だ」
「は?神鳥?」
「滅多に人前に姿を現すことがない鳥だ。よく来るのか?」
「はあ、しょっちゅうってわけじゃないっスけど」
 ハボックはそう答えて自分の腕に止まる鳥を改めて見た。青みがかった緑色の羽毛は光沢を帯びて綺麗に輝き胸元は鮮やかな紅い毛に覆われている。長い飾り羽は1メートル近くもありハボックの腕に止まっていてすら地面近くまで長々と伸びていた。
「大気の神とも言われる鳥だ。まさかこんな所で会えるとは」
 ロイはそう言うと鳥の頭に触れる。懐かしそうに目を細めるロイを見つめてハボックは言った。
「大気の神って、それじゃロイの親戚みたいなもんスね」
 そう言われてロイは僅かに眉を寄せたが口に出しては何も言わなかった。鳥の背を撫でながら感嘆したように話しているハボックをロイはじっと見つめる。
(メダルがコイツを選んだのはあながち偶然なんかじゃないのかも知れない)
 そうしてじっと見つめ続けていれば視線を感じたのかハボックの瞳がロイの方へと向いた。ふわりと微笑む空色の瞳に自分がどれ程ハボックという人間に惹かれているのかということを、ロイは唐突に気づいてしまう。
「ロイ?」
 不思議そうに呼ぶその声に、ロイはとくりと心臓がなるのを感じてそっと目を閉じたのだった。

 洗濯物を取り込んで家に入ってきたハボックは、ロイがソファーに寝そべって転寝しているのを見て目を細める。すっかりと安心しきっているような寝顔にハボックの顔にも自然と笑みが浮んだ。ひと月前、偶然入り込んだ洞窟で、これまた偶然にも拾ったメダルを手に訳も判らず契約を結んでしまった。ロイがここで自分と暮らしてくれるのは単に契約があるからだろうが、それでもハボックはとても嬉しかった。たった一人の身内だった祖母が死んでからハボックはずっと一人きりだった。カイやミリアやハボックに良くしてくれる人もいるにはいたが、それでも心の奥底から沸き上がる寂しさは消せるものではなかった。だが、ロイが来てからハボックもごく普通の人たちが何の苦労もなく手にしていたささやかな幸せを手にすることが出来た。それは誰かの為に食事を作ることであったり、他愛ないことを口に出来る喜びであったり、だが、それはハボックが自分が手にすることは決してないと思っていたものだった。
 ハボックは洗濯物を置くとブランケットを取り出しロイの体にかけてやる。穏やかに眠るその綺麗な顔を見つめてハボックは心の中でロイに向かって言った。
(ここにいてくれてありがとう。それから、ごめんなさい…)
 ロイがここにいてくれることがハボックにとってどれ程幸せなことか、おそらくロイには判らないだろうとハボックは思う。ロイがここにいるのはただ契約で縛られていると言う理由だけなのだから。そして、その不本意ともいえる契約を知らぬこととはいえ結んでしまったことを、ハボックはロイに申し訳ないとずっと思い続けていた。それを口にしたところでどうにもならないと判っていたから口にしないだけで。そうしてそれと同じ理由でハボックはロイに惹かれ続けている自分の気持ちもずっと隠し通していた。
(ごめんなさい、ロイ。でもオレ…)
 ハボックは緩く首を振るとロイの顔から視線を逸らす。置いたままだった洗濯物を手に取ると、ハボックは音を立てないようにして部屋を出て行った。

「こんにちは、ジャン」
 扉を叩く音に開けてみればそこにはヘンリーの姿があった。
「こんにちは、ヘンリー。よく来たね」
 ハボックはにっこり笑ってそう言うとヘンリーを中へと通す。勝手知ったる様子で中へと入ってきたヘンリーはソファーに座って本を読んでいるロイを見るとタタタと駆け寄っていった。
「こんにちは、ロイっ」
 ロイは読んでいた本からちらりと視線を上げたが何も言わずにまた視線を本へと戻す。だが、何も言わないのは歓迎されている印だと、ロイがここへ来てから何度か来ていて判っているヘンリーは構わずロイの隣りに腰を下ろした。
「カイおじさんの家に行ったら今日はこっちだって言ってたから。ロイ、また本読んでるの?」
 そう言って覗き込んでくる子供の頭をロイは鬱陶しげに押し戻す。
「見えない」
「ねぇ、ロイもジャンもよくこんな字、読めるね。これってすっごく昔の文字なんでしょう?」
 だが、ロイはヘンリーの言葉には答えずに本を読み続けていた。ハボックはキッチンからミルクの入ったカップと焼いたばかりのマフィンを持ってくるとヘンリーの前に置く。
「ちょうど焼きあがったところなんだ。よかったらどうぞ」
「やったぁ、ボク、ジャンのマフィン大好きっ」
 そう言って早速手を伸ばすヘンリーに微笑むとロイの名を呼んだ。
「カフェオレ」
「はいはい」
 答えてキッチンへと戻っていくハボックの背を見送ってヘンリーはロイの顔を見上げる。
「いっつも思うけど、ロイってエラソーだよね」
 ジロリと睨んでくるロイの黒い瞳を平然と見返してヘンリーはマフィンを頬張りながら続けた。
「いつ来てもソファーに座って本読んでるし、カイおじさんのとこでも、たまーーーーーに手伝ったりしてるけど大体はダイニングで本読んでるじゃん」
 ヘンリーの言葉にロイがムッとして言い返そうとしたとき、カフェオレのカップを手に戻ってきたハボックが口を挿む。
「ロイは何もしなくていいんだよ」
「なんで?働かざるもの喰うべからずってパパが言ってたよ。ロイ、いっつも何にもしてないのにジャンの美味しいごはん食べてばっかりでずるいよ」
「お前なぁっ」
 あまりの言いようにロイが流石に声を荒げればハボックがくすくすと笑った。
「ヘンリー。ロイは何もしなくていいんだ」
 そうしてハボックは同じ言葉を繰り返す。
「どうして?」
 不思議そうに聞くヘンリーにハボックが答えた。
「どうしても」
(ここにいてくれるだけでいい)
 心の中でそう呟いてハボックはロイを見つめる。その幸せそうな顔にヘンリーは子供ながらに納得して頷いた。
「そうか、どうしても、なんだね」
「なんだ、それは」
 一人訳が判らないと言う顔をするロイを余所に、ハボックとヘンリーは顔を見合わせると楽しそうに笑ったのだった。


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