アフ・チュイ・カック  第十一章


「おい」
 ヘンリーが帰った後、洗い物をしているハボックにロイが声をかけてきた。なんだろうと濡れた手をタオルで拭くとハボックはロイの方を見る。
「なんスか?」
「…なにか私に手伝えることがあるなら言え」
「は?」
 頬を染めて不機嫌そうにそう言うロイの顔をまじまじと見つめたハボックは、次の瞬間プッと噴出した。くすくすと笑うハボックを睨みつけてくる黒い瞳にハボックはなんとか笑いを引っ込めると言う。
「やだな、ヘンリーの言ったこと、気にしてるんスか?」
「別に気にしてるわけじゃ…っ」
 ムキになって言い返そうとするロイにハボックは優しく笑った。
「いいんスよ、ヘンリーにも言ったでしょ。気にしないで下さい」
そう言って再び洗い物を始めるハボックの背をロイはじっと見つめる。それからぽつりと呟くように言った。
「私がここにいるのは迷惑か?」
「えっ?」
 ガチャンと音を立ててハボックは慌てたようにロイを振り向く。俯いたロイの表情が見えなくて、ハボックは濡れた手でロイの両肩を掴んだ。ハッとしたようにハボックに向けられた黒い瞳をハボックはじっと見返すと言う。
「オレ、ロイがここにいてくれることにとても感謝してるんスよ?」
「ハボック…」
「ロイが来てくれてからオレ、毎日楽しくて仕方ないんス」
 そう言って笑うハボックにロイは心臓がとくんと鳴るのを聞いた。もし、自分もここにいるのが幸せなのだと、そう告げたらハボックはどうするのだろうとそう思った時。
「ロイがここにいるのは契約で縛られてるからだって判ってるし、ロイには迷惑でしょうけど、あと少しでいいからここにいて下さい」
 ハボックの言葉にロイは僅かに目を見開く。「ゆっくりしててください」と言って自分に背を向けてしまったハボックを見つめて唇を噛み締めた。確かに自分がここに来たきっかけは契約があったからだ。だが、今では自分の意志でハボックの側にいたいと思い、どんな小さなことでもいいからハボックの役に立ちたいと思っている。迷惑だなどと思ったことなどまるでないというのに。
(あと少しでいい、と思えるくらいの存在なんだ…)
 赦されるならずっとずっと側にいたいと思っているのは自分だけなのだと、そう思い知らされた気がして、ロイはハボックに背を向けるとキッチンからのろのろと出て行ったのだった。

 昏く垂れ込めた空の下をロイは必死に走っていた。ようやくたどり着いた峠から下を見下ろせば、村が禍々しい気配に覆われているのが見える。その気配に村が飲み尽くされてしまうのではないかと思ったその時。
 見下ろすロイの視線の先で地上から天に向けて龍の形をした稲妻が駆け上り、村を覆う気配が霧散した。
「…っっ!!」
 ロイのよく知る男の気が、大地の意志を吸い込んで金色の光を纏って膨れ上がり、霧散する禍々しいそれを追いかけ飲み込んでいった。呆然とそれを見つめていたロイは、ハッと我に返ると村への道を駆け下っていく。村の名前を刻んだ木切れのような看板の前を駆け抜け、ロイはあちこちに無残な闇の爪あとを残す村へと走りこんだ。きょろきょろと辺りを見回すと村の奥へと駆けていく。村を覆っていた金色の気が小さくしぼんでいくその元へ導かれるままに脚を向ければ、地面に横たわる男の姿が目に飛び込んできた。ロイは急いで駆け寄ると男の体を抱えあげる。すっかりと冷え切っているその体にぞっとして、ロイは男の名を呼んだ。
「…ロイ」
 ロイの声に答えて男が目を開ける。瞼の下から現れた空色がいつもの鮮やかさを失ってくすんでいる事にロイは息を飲んだ。
「どうしてっ、どうして私が戻ってくるのを待たなかったっ?!」
 ロイがそう言えば男は唇の端を歪める。
「時間がなかったからな…。それにいずれにせよお前の力じゃでかすぎてヤツを消し去るどころか世界すら吹き飛ばしかねんだろう」
 俺ぐらいでちょうどいいんだ、とそう呟く男の中の命の糸が綻び解
(ほど)けるように溶けていくのをロイは感じた。それと同時に絡み合っていた二人の命の糸がゆっくりと離れていくのも。男は手を上げるとロイの頬にそっと触れる。そうして薄っすらと微笑むとロイに言った。
「今まで悪かったな。これでお前は自由だ。もう誰にも縛られることはない…」
「何言って…っ」
「ありがとう、ロイ…お前に会えてよかった…」
「嫌だっ、なんでそんな事言うんだっ」
「愛してたよ、ロイ…」
 フッと微笑んで男の瞳が最期の光を放つ。ロイの頬を撫でていた男の手がするりと滑り落ち地面を叩いた。それと同時に男の命の糸は完全に空へと溶けて消えてしまう。
「嫌だ…私を置いていくなっ…行かないでくれっっ!!」
 ロイは抜け殻になってしまった男の体をかき抱いた。涙に濡れた顔を天にむけそうして。
 ロイは喉の奥から絶望に満ちた声を迸らせた。


「ロイっ!!ロイっっ!!」
 ソファーに横たわっていた体を激しく揺さぶられて、ロイはハッと目を開ける。ハアハアと荒い息を零して見上げれば空色の瞳が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫っスか?」
 ハボックはそう言うと汗に濡れたロイの髪をかき上げる。
「悪い夢を見たんスね、でも、大丈夫。ここには悪いものは何もないから」
 そう言いながら笑うとハボックは立ち上がった。
「今、水を持ってきますね」
 言って背を向けるハボックにロイは腕を伸ばすとギュッと縋りつく。
「ロイ?」
驚いて振り返るハボックの胸にロイは縋りついて顔を埋めた。戸惑いながらも抱きしめてくれる腕にロイは震える息を吐く。
(もう二度と失くしたくない…ハボックが好きだ…)
 ただ一人心を赦した人間を失ってからずっと眠りについていた自分を目覚めさせたハボック。二度と人間など愛したりしないと、その絶望が深ければ深いほどロイはそう強く心に決めていた。だが、そんな思い等気づきもせずにハボックは瞬く間にロイの心の中にその居場所を得てしまった。
(ハボックが私を必要としてくれなくてもいい…今度は絶対守るから…)
 その為にだけ自分はここにいようと、口には出さずにロイはそう心に誓う。
「ロイ?」
 ロイの想いにはまるで気づかぬまま不思議そうに名を呼ぶハボックを、ロイはそっと抱きしめたのだった。

 ミリアは山の中の獣道を一人歩いていた。険しい道に息は上がりそこここから張り出す枝や草で手足には細かな傷が無数に出来ている。それでもその歩みは緩むことはなく、ミリアはどんどんと進んでいった。毎日のようにハボックと現れるロイの姿を見るたび、ミリアは心が叫び声をあげるのを止めることが出来なかった。ロイを見つめるハボックの幸せそうな顔を見るたび昏い嫉妬の焔がミリアのうちを焼き尽くし、ミリアを苦しめていた。
「ロイが来たからいけないんだ…。ジャンは私のものなのに…っ」
 赤褐色の瞳に昏い嫉妬の焔を燃え上がらせてミリアは呟く。美しかったその面はすっかりと様変わりし、ぎらぎらと瞳だけが異様な光を放っていた。地面を踏みしめ歩いていた足が、張り出した木の根に取られミリアはバランスを崩して倒れこむ。地面に蹲ったまま、転んだ拍子に切り裂いた腕から流れる血を見つめていたミリアは、両手をついたまま喉を仰け反らせて木々の間から覗く空を見上げた。鬱蒼と生い茂る葉の間から僅かに覗く空が、今では遠いものとなってしまった様に感じていたハボックを思い出させる。
「うあああああっっ」
 仰け反らせたミリアの喉から獣のような声が迸った。その声は森を駆け抜け山の奥深いところまで達し、そして。
 誰からも忘れ去られ打ち捨てられた昏い祠の中でざわりと何かが蠢いた。生暖かい風が森を吹きぬけ山を駆け
下り村へと吹き付ける。
「…ミリア?」
 ロイと並んで道を歩いていたハボックは吹き抜けた風に辺りを見回した。
「どうした?」
 突然脚を止めたハボックを不思議そうに見つめるロイにハボックは小さく首を振ると笑う。
「いえ、気のせいみたいっス」
 行きましょう、とロイを促して歩き出したハボックは、だがこれから起ころうとしている事に何も気づいてはいなかった。


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