| アフ・チュイ・カック 第十二章 |
| 誰もが寝静まる夜のもっとも深い時刻、ミリアはむくりとベッドの上に体を起こす。暗闇の中、目を凝らしてじっとしていると、頭の中に呼びかける声が響いてきた。 「…誰?」 眉を寄せてそう呟けば頭の中の声が大きくなる。ミリアはベッドから脚を下ろすと、ベッドサイドに脱いでいた靴を履いた。そうして部屋の扉をそっと開けると階下へと下りて行く。ダイニングを通り過ぎ勝手口の扉を開けるとミリアは外へ出た。空を見上げれば血の色をした月がちょうど南天にかかるところだった。生暖かい風が吹き抜ける夜道をミリアは声に導かれるままに歩いた。村を通り抜けすぐ近くの沼へと足を向ける。そのほとりに立つとミリアは水面を覗き込んだ。風に僅かにさざめく水面には嫉妬の焔をその瞳に宿した己の姿が映っている。ミリアはその姿をじっと見つめていたがやがて口を開いた。 「アンタ、誰?」 すると、水面に映ったその姿がニヤリと笑う。 「わが名はア・プチ。私を深い眠りから呼び覚ましたのはお前か?」 「私は誰も呼んだりしてないわ」 「呼んださ。お前の嫉妬に狂った心が私を深い闇の中から引き戻したのだ」 水の中のミリアはそう言うとクククと笑った。 「こんなにも純粋で激しい悋気(りんき)は久しぶりだ。お前の愛しいものを奪ったのはどんな相手だ」 そう言われて赤褐色の瞳に昏い焔を燃え上がらせるミリアにそれが楽しげに言う。 「ソイツを殺してやりたいか?自分から離れていった男を殺してやりたいか?」 「…ロイだけじゃないわ。ロイによくしてやってる父さんも診療所の先生もヘンリーもみんな嫌いよ。ジャンに酷く当たる村の人たちもみんなみんな死んでしまえばいいんだ」 ミリアの唇から零れる憎しみに満ちた言葉をうっとりと聞いていたそれはにんまりと笑うとミリアに言った。 「ならばお前に力を与えてやろう。今、私は忌々しい呪術師に玉石に封じ込まれて森の奥深くの洞窟に閉じ込められている。お前が私をそこから連れ出してくれたなら、私はお前にお前が望むだけの力を与えてやろう」 「ロイや父さんたちや村の人たちを殺す力を?」 「お前の愛しい男をお前のものにする力を。」 ミリアは水面をじっと見つめていたがやがて昏い笑みを浮かべる。 「場所を詳しく教えて」 そうしてミリアは頭に響く声に耳を傾けたのだった。 その日、ロイがカイの家でハボックの帰りを待っていると店の方からなにやら騒がしい声が聞こえた。ロイは読んでいた本を置くと扉をあけて店へと出る。カイと話をしていたハボックはロイが入ってくるのを見て慌てて顔を背けた。だが、ハボックがロイに背を向ける前にロイはハボックの顔に出来た傷に気づいて眉を顰める。 「どうしたんだ、それっ」 ロイはハボックに近づくとその腕をグイと引く。手のひらで目の辺りを隠すようにしていたハボックの腕を引いて外させると青紫色に腫れた瞼の上の傷に息を飲んだ。 「ハボ、それっ」 「たいしたことないっスから」 ハボックはそう言って手のひらを振る。だがロイはその傷の側に手を寄せると叫ぶように言った。 「大したことないだとっ?ヘタしたら目を傷めてたじゃないかっ!一体誰が…っ」 ロイはそう言うとカイの顔を見る。 「今日はベンじいさんの家に行くと言っていたな。あのじじいかっ!」 「ちがいますよ、ロイ。オレが勝手にコケたんです」 「ハボックっ!」 怒りに体を震わせるロイの手にそっと己の手を載せるとハボックは言った。 「ベンじいさんは関係ないっス。だから怒らないで下さい」 あくまでそう言い張るハボックにロイは唇を噛み締めてハボックの手を振り払う。そんな二人を見ていたカイが口を挟んだ。 「とにかくまず、ケガの手当てをした方がいい。ジャン、ホントに目には当たっていないんだな?」 「ええ、大丈夫っス」 カイはそれに頷くと二人を家の方へと促す。ダイニングへと入ってくるとカイはハボックに座るようにと言った。ロイはハボックの傷を見つめると呻くように言う。 「ひどい…なんでこんなことするんだ…っ」 まるで自分が殴られたように傷ついた顔をするロイを見上げてハボックが言った。 「オレがいけなかったんスよ。たいしたことないからそんな顔、しないで下さい」 ハボックはそう言ってロイの頬に触れる。ロイは頬に添えられたハボックの手の上に自分の手を載せるとギュッと唇を噛み締める。 「くそっ」 ベンじいさんがハボックのことをよく思っていないことも知っているし、その理由も聞いた。ハボック自身がその事をずっと負い目に感じていることも。 「だからってこんな…っ」 今すぐ消し炭にしてやりたい衝動に駆られて、だがそんなことをしてもハボックが決して喜びはしないとロイはゆっくりと息を吐いた。ハボックはそんなロイに小さな声で言う。 「心配かけてごめんなさい、ロイ」 「お前がそんなことを言う必要は…っ」 こんな時でさえ自分を気遣ってくれるハボックにロイは泣きたくなった。その時カイが薬箱を持って戻って来て、ロイはハボックの前から離れる。目をつぶって治療を受けるハボックの姿を見ていられなくてロイは家の外へと出た。倉庫の前まで来ると、そこに立っているスラリとした姿に気がつく。 「ミリア?」 そう言えばここのところ見かけていなかったと思いつつ、ロイはミリアに声をかけた。ロイの声に振り向いたミリアの姿にロイは微かに目を瞠る。 「ロイ」 以前、見たミリアはこんなだったろうか。その身に纏うオーラを、かつてどこかで見たことがある気がしてロイが記憶を辿っているとミリアの声が聞こえた。 「ジャンのあの傷、ベンじいさんがやったの?」 そう聞かれてロイは曖昧に頷く。 「ハボックはそうじゃないと言っているが、まずあのじじいのせいだろうな」 「そう…」 ロイの言葉に頷くミリアの瞳が赤く光った気がして、ロイは目を見開いた。それ以上何も言わずに家の中へと戻っていくミリアの背を見送って、ロイはゾクリと体が震えるのを止められなかった。 数日後、扉を激しく叩く音にハボックは料理をしていた手を止めて玄関へと向かう。 「ジャンっ、ジャンっ!!」 「ヘンリー?」 叩く合間に聞きなれた子供の声がして、ハボックは慌てて扉を開けた。顔を合わせた途端、ヘンリーがハボックの服にしがみ付くようにして飛びついてくる。 「どうしたんだ、ヘンリー、何があった?」 「ベンじいさんがっ…ベンじいさんが死んだっ!」 「えっ?」 玄関口で騒いでいる子供にロイが家の中から出てくると言った。 「どういうことだ、ヘンリー」 「ここ数日、ベンじいさんの姿が見えないからって、近所のベティおばさんが様子見にいったら…ちっ、血まみれで死んでたって…っ」 「そんな…どうして…?」 ハボックはそう呟いてロイと顔を見合わせる。ロイは半ば呆然としているハボックを見つめると言った。 「ここにいても何も判らないだろう。ベンじいさんの家に行ってみたらどうだ?」 「そうっスね、行きましょう」 ハボックはそう言うとヘンリーを促して家を出る。足早に村の中心へと向かえば向こうから来るカイと出会った。 「カイおじさんっ!ベンじいさんが死んだって…」 「もう聞いたのか。今から俺も様子を見に行くところだ」 「オレも一緒にいいっスか?」 「ああ」 ハボックは傍らのロイとヘンリーを見て言う。 「ロイはヘンリーと一緒にカイおじさんの家で待ってて」 「どうして?私も一緒に――」 「ヘンリーを連れて行きたくないんスよ」 ハボックにそう言われてロイはヘンリーを見下ろした。青い顔をして怯えているヘンリーを見て、ロイは答える。 「そのとおりだな」 ロイはそう言うとヘンリーの手を取った。 「カイ、家で待たせてもらう」 「おお、そうしてくれ」 「ハボ、待ってるから、気をつけて」 「はい」 ハボックの答えにロイは頷くとヘンリーの手を引いてカイの家へと向かう。立ち去る二人の姿を見送っていたハボックはカイの顔を見ると言った。 「行きましょう、カイおじさん」 「うむ」 頷いて二人は足早にベンじいさんの家へと向かったのだった。 |
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