アフ・チュイ・カック  第三十一章


「カイおじさん…っ」
 窓から眩い光が差し込んで、カイはヘンリーの小さな体を抱きしめる。暫くしてゆっくりと消えていった光に、二人は言葉もなく窓の外を見つめた。どれくらいの時が経ったのだろう、ヘンリーがカイに聞く。
「おわったの…?」
 そう聞かれてもカイに判る筈もなく、二人は立ち上がると窓辺に近づいた。やわらかな風が吹いて薄暗かった空がゆっくりと晴れていく。明るくなっていく空を黙ったまま見つめていた二人だったが、ヘンリーが傍らに立つカイの袖を引いた。
「カイおじさんっ」
「ああ、行こう」
 カイはヘンリーの手を取ると家を出て光の消えた方向へと走り出したのだった。

(ここ、どこ?)
 少女はきらきらと輝く野原の真ん中でそう思う。少女が立ち尽くしているそこはあたり一面が淡く輝き、暖かく柔らかい風が吹いていた。足元を見れば焔に焼かれて枯れていた草が次々と緑を取り戻し、彼女を中心にして風が吹き抜けるように一面に白い小さな花を咲かせていく。
(きれい)
 ずっと昔、こんな光景を見たことがあるような気がした。だが思い出そうとすればそれはするりと手の中から滑り落ちて。
 自分がどうしてここにいるのか、何をしようとしていたのか、そんなことを思い出そうとすればする程全てが輝く欠片となって消えてしまう。少女は手を広げてその中に残る輝く欠片を見つめた。ただそれがとても大切で、何よりも守りたいと思っていたことだけが確かなことで、少女が幼いその手にキュッと握り締めたそれを大事そうに胸に引き寄せた時、背後からかかった声に少女はゆっくりと振り向いた。
「ミリア?!」
 そこに立っていたのは黒髪に黒い瞳のほっそりとした青年だった。彼は信じられないものを見るようにその黒曜石の瞳を見開いて幼い少女を見つめている。数歩、引き寄せられるように近づくとゆっくりと口を開いた。
「ミリア、なのか…?」
 ロイは目の前の少女を見つめて信じられない思いでいっぱいだった。目の前にいるのは綺麗な栗色の髪と赤褐色の瞳をした少女。面影は確かにミリアのものだったが、だがその少女はどう見ても5つか6つにしか見えなかった。ロイはゆっくりと少女に近づくとその肩に手を置く。その途端、流れ込んできた気に少女がミリアであることを確信した。
「どうやって…」
 古い古い太古の言葉で、魂が生まれ、そうして還っていく場所の扉が開かれ、戦いに荒れ果てた土地となっていたはずのこの場所は今、暖かい光に包まれその命を取り戻しつつある。ロイはぐるりとあたりを見回した目を少女の上に戻した。
「食い荒らされた魂をなんとかここまで取り戻したということか…」
 ずっとずっと昔には神の声を聞き、精霊達と共に暮らし、大地と空をその家とした人間たちがいたと言う。あの金髪の青年がその生き残りなのかとそう思ったロイは、見えないハボックの姿を探して辺りを見回した。きょろきょろと彷徨わせた視線が、すっかりと長く伸びた草の間に横たわる姿を捉え、慌てて駆け寄っていく。
「ハボックっ!」
 草の波の中に仰向けに横たわるその体にロイは手を伸ばした。
「ハボックっ!しっかりしろ、ハボックっっ!」
 草の中から抱え起こしその金色の頭を胸に抱く。
「ハボック…?」
 ハボックの空色の瞳はロイの呼びかけにも開かなかった。
「私の声が聞こえないのかっ、ハボックっっ!!」
 ロイはピクリとも動かないその体を抱きしめる。その頬に自分の頬を寄せて囁いた。
「ハボック、頼む、目を開けてくれ。頼むから…」
 だが、ロイのその声にもハボックの瞳は堅く閉ざされたままだった。
「いやだ…どうして目を開けないんだ。約束したろう?忘れてないって言ったじゃないか…っ」
 黒曜石の瞳から涙が溢れハボックの頬を濡らす。ロイは声もなく涙を流しながらただハボックの体を抱きしめていた。

「カイおじさん、これ、なに?」
「さあな、俺にもわからん」
 子供の手を引いて走りながらカイは答える。あたりはキラキラと薄く輝き、暖かい空気に満ちていた。ヘンリーはうっとりと目を細めて呟く。
「なんかすっごくあったかくて安心する」
「そうだな」
 そう答えてカイは道端の草がゆっくりと背丈を伸ばし蕾をつけ花開くのを見て目を見開いた。
「どうなってるんだ、一体」
 さっきまで村を包んでいた禍々しい気配は消え去り、今あたりに広がるのは暖かく優しい空気。まるで母の胸に抱かれているかのようなそれに、事態がよい方向へと動いているのだと感じてカイの顔に自然と笑みが浮ぶ。
「よくは判らんが、きっとジャンたちがやり遂げたんだ」
 確信したようにそう言えば、ヘンリーが顔を輝かせてカイを見上げた。
「それってジャンたちが勝ったってこと?」
「ああ、きっとそうだ」
 そう答えれば駆ける足も自然と軽くなる。早く二人の下へ行こうとカイとヘンリーがその足を速めたとき、道の真ん中に立つ小さな姿に気づいた。
「だれ?」
 足を止めたヘンリーが不安そうに呟く。カイはヘンリーの体を庇うように前に立つとその姿を見つめた。握った手を大事そうに胸に抱えた栗色の髪に赤褐色の瞳の少女。少女をじっと見つめていたカイの目が大きく見開かれた。
「ミリア…」
「えっ?」
 呟いたカイの言葉にヘンリーが驚いてカイを見上げる。
「ミリアって?だってあれ、女の子だよ?ミリアはもう大人じゃない。あの子、ボクより小さいよ?」
 信じられないとばかりに言うヘンリーの言葉を聞きながら、カイにはだがそれがミリアだと判っていた。ヘンリーの手を離してゆっくりと少女に近づいていく。その前に膝をつくと少女の顔を覗き込んだ。
「ミリア…ミリアなんだな?」
 じっと見つめてくる赤褐色の瞳にカイの目に涙が膨れ上がる。
「よかった…よかった、ミリア…っ」
 もう二度と娘をこの手に取り戻すことは出来ないだろうと、怖ろしい魔物にその魂を差し出してしまった娘のことは諦めるしかないのだと言い聞かせてきた。どうしてミリアが幼い少女の姿なのか、それはカイには判らなかったがそれでも再び娘をその手に抱くことが出来る喜びはとても大きくて。ギュッと少女を抱きしめるカイを驚いて見つめていたヘンリーはようやく小走りにカイの側にやってくると、カイの腕の中の少女を覗き込んだ。
「うそみたい…ボクより小さくなっちゃったミリアなんて。どうしてちっちゃくなっちゃったの、ミリア?」
 そう言って見つめた少女の赤褐色の瞳に見返されて、その綺麗な顔にヘンリーは顔を赤らめて目を逸らす。
(かわいい、この子)
 チラリと見た少女が何かを大事そうに握り締めている事に気づいて、ヘンリーは少女に聞いた。
「何持ってるの?」
 そう聞けば少女がそっと手を開いてその中のものを見せてくれる。キラキラと輝くそれを覗き込んだヘンリーが何か言う前に少女は再びそれを握り締めるとカイの腕からするりと抜け出した。
「ミリア?どうしたんだ?」
 そう尋ねるカイをミリアはじっと見上げる。何も言わずに見つめていたミリアはパッと身を翻すと来た道を戻っていった。背を向けて走り出すその小さな姿を、カイは立ち上がるとヘンリーと共に慌てて追いかけたのだった。


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